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無題

2009年07月26日
 12時間寝て、風邪から何とか回復基調に乗った。遅くに研究室に入るが、ほとんど何も手に付かない。さいわい、仕事は一昨日一段落している。最後はほとんど取り憑かれたようにやっていたので、精神的にも疲労感が深い。今日一日は頭を切り替えるのに使おう。

 ネットで音楽を聴きながら、部屋を片付ける。

 「夏の終わりのハーモニー」 

やっぱり美声だねえ、陽水は。7月の終わりに「夏の終わり」もないようなものだが、4,5日前から高野山ではひぐらしの声が聞こえている。これでアキアカネが飛びはじめたら、ホントに秋だぞ。




 

 

 
ある大学教員の日常茶飯

なんだ、そうだったのか

2009年07月21日
浅田次郎の『ま、いっか。』を読んで、私は、ひとつ、しまったと思ったことがある。

私は浅田氏の熱心な読者というわけではないが、枕元には彼のエッセイ集『勇気凛々瑠璃の色』が何冊か置いてある。
その中でおもしろいのは、浅田氏の作家としての猛烈な仕事ぶりである。そのため私は、浅田氏は、今もあんな風な生活しているものと思い込んでいた。そして、ジャンルこそ違え、その道のプロたる者、この位のことはしなければならないと思っていた。

ところが、である。

『ま、いっか。』から窺われる最近の氏の生活は、早寝早起きの健康第一オヤジのそれなのである。

考えてみれば当り前であろう。氏が直木賞を取ったのが何年前かは知らないが、当時と同じ生活をしていたのでは、とっくにどうにかなっている。氏は健康に留意して、できるだけ長生きし、自分の作品のあちこちに冗談めかして書きつけてある文化勲章を本気で狙っているのかもしれない。

なんだ、そうだったのか。

私もこんをつめるのはたいがいにしよう。
ある大学教員の日常茶飯

広島、波佐

2009年07月19日
 先にも書いたように、先週の土日月と能海寛研究会の年次大会で島根県の金城町波佐というところに出かけた。
 土曜日はJR広島駅の近くのビジネスホテルで一泊し、翌朝早く、研究会会長の横田先生の車に便乗して波佐に向かう。中国山脈を越える2時間の道のりだ。その道中、意外なことを聞かされる。

「僕は15年も会長をやってきて、能海寛著作集も刊行されたことだし、この際会長を退きたい。岡崎君が次期会長になる予定なので、副会長のポストが空く。僕は君を推薦しておいたのだが、隅田さんから何か連絡はなかったかね」
「ええっ?・・・・・・・」

この不意打ちに逃げることができず、結局、総会で次のように挨拶するはめに。

「私はかれこれ10年ばかり前に一度来たことがあるだけの幽霊会員で、それがいきなり副会長じゃあ、みなさんの方が戸惑われるでしょう。でもまあ、ここはひとつ、関西に能海寛研究会の支部ができたつもりで勘弁してやってください」

 このことを除けば中村保さんと久しぶりにお会いしたことも、当日参加した(中にはパリからこの会に合わせて来日したというつわものもいた)皆さんと交流できたことも、帰りに広島で服部組の臨時打ち合わせ会ができたこともすべて有意義であったわけだが・・・

波佐
たたら蔵を改造した金城町歴史民俗資料館 この町が生んだ近代の二人の著名人、島村抱月と能海寛が看板になっている。
 
研究ノート

密教研究会

2009年07月18日
しばらく更新していなかったが、そろそろ日常に戻ろうと思う。お察し願いたい。

金土の二日間、密教研究会の学術大会が高野山大学を会場に開かれた。

今年の目玉は、なんといっても阿満利麿先生の御講演「私とエンゲイジドブッディズム」であった。阿満先生の懇切かつ情熱的な語りに感銘を受けた。

会場には管長猊下をはじめ、多くの方々が聴講に来られ、質疑もそれなりに行なわれて、主催者側としては、かなりの成功だったと自負している。

これに先立って、阪南大学の守屋先生といっしょに来られた阿満先生を高野山駅までお迎えに行き、その後、昼食をはさんでいろいろお話できたことが、私個人にもおおいにプラスであった。
高野山大学の力

川喜田二郎先生を悼む

2009年07月13日

先週のことになるが、文化人類学者の川喜田二郎先生が逝去された。
新聞社に求められて追悼文を書いた。
今日の読売新聞朝刊、文化欄をご覧いただきたい。
気持はそこに尽くしてある。哀悼。
ある大学教員の日常茶飯

能海寛研究会年次総会

2009年07月10日
 明日から2泊3日で、島根の波佐で開かれる能海寛研究会にでかける。1泊2日ですませたいところだが、交通の関係で、どうしてもこうなるのである。
 前に一度自動車で行ったことがあるのだが、距離も時間も長いこと長いこと。おまけに今週はさすがの私も疲れ気味だ。
 
 という訳で、今朝早起きして発表の準備をすませた。『能海寛著作集』第6巻の解説がベースなので、原稿と資料作りが2時間ほどで終わった。これは私にしてみれば、実にスピーディーな仕事ぶりである。「熊楠」関連の原稿の束を抱えての旅になる。


 今回は中村保さんと横田会長の前座であるから気は楽である。懇親会は、中村さんの受賞と『能海寛著作集』の完結の祝賀会を兼ねたものになる。でも、あまり飲みすぎないように注意しなければ。 
研究ノート

W君

2009年07月07日
 2週間ちょっと前のことになるが、W君が研究室を訪ねてきた。W君は10数年前に私のゼミを出た人で、最初、和歌山市のスーパーに就職したが、その後、食品会社に転職し、結婚して今は2歳の女の子の父だという。
 彼はずいぶんリサーチして私のゼミに入ってきたという印象が強い。そのために一種の面接を彼の方から求めてきた記憶がある。
 卒論ではタゴールの思想を扱った。口述諮問のとき、当時はばりばりの現役教授であられた松長猊下から、「食い足りない点もあるが、あんたがほんとにタゴールが好きだということは伝わってくる」というお言葉をいただき、側にいた私もうれしかった。
 ゼミ旅行を仕切ってくれて、京都に行き、宇治の万福寺や平等院を訪ねたことも記憶に新しい。

 久しぶりに会った私の感想は、いい大人になった、というものであった。今は仕事以外にも生き甲斐を感じる活動をしているとのこと。

「高野山大学で学んで、本当によかった」と言い残して帰って行った。
高野山大学の力

生涯学習講座 in 大阪

2009年07月06日
 昨日の午後2時からなんばパークス7Fのパークスホールで生涯学習講座を行なった。

 タイトルは、「高野山と河口慧海、南方熊楠」

 内容は、河口慧海と南方熊楠を通して、高野山と地域とのかかわりを考えるというもの。二人の高野山との関係は、地縁によって始まるが、彼らをのちのちまで引きつけたのは、やはり人と人との縁であったというのがとりあえずのまとめである。

 110人を超えるみなさんが聴きにきてくださった。なかにはかなり遠くから来られた方々もいらっしゃったが、ゆっくりお話できなかったことが残念だった。

 アンケートを見る限り、おおむね好評で、喜んでいる。「高野山にはファンがいっぱいいますよ」という声に勇気づけられた。
高野山大学の力

ばったり

2009年07月04日
 学生課でばったり通信制大学院生のKさんに遭遇。何年も前に一度話をしたきり、まったく音信がないので、どうしているのか、どうするつもりか、と気になっていたから、時間を作って一時間ほど話をしたら、まだまだ長期戦でやるのだそうだ。
 私とは同い年で、仕事をばりばりこなす専門職中の専門職を持っている人だが、高野山大学で学んでいるものを日本社会を変える(もちろんよい方向に)のに役立てたい、密教には必ずそれがある、と意気軒昂だった。実際、通信にはこういう人が多い。

 夜、食堂で新聞を読んでいたら、偶然M子たちが入ってきた。数年前に私のゼミを卒業した彼女は、しばらく御山で働いていたのだが、今度実家に帰るのだそうだ。
「結婚するんじゃないですよ。実家帰って修行するんです。ところで、先生、ちょっとやせたんじゃない。顔がほっそりして」
「そうだろ。ますますいい男になっただろう」
「ブッフフフ・・・・・」

在学中から遠慮のない口をきいてきた仲だが、先に食べてお勘定をすませていると、席を立ってきて、「じゃ、また遊びに来るからネ・・・・元気でね・・・」と結構しおらしいのだった。

高野山大学の力

夏が来た

2009年07月01日
今朝は6時半に出勤。
 曼荼羅荘の玄関をあけ、外気を吸い込んで、夏が来たことを実感した。午後からひどく蒸し暑く、夕方から豪雨。まったく飽きもせずによく降る雨である。

 韓国のC先生から連絡が入り、今月中に一度高野山に来られるという。こちらから動かなくても、どんどんアポが飛び込んできて、予定表が埋まってゆく。
 
 月初めは毎度同じだが、今月こそ勝負の月だと誓いを新たにする。


 東京の藤本さんからまたまたありがたいお便り。

 これに刺激を受けて、目前の仕事が一段落したら、高野山の近代の資料を集めるプロジェクトを検討しようと考え始めている。

 

 

 
ある大学教員の日常茶飯
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