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高野山大学密教文化研究所研究会

2009年06月29日
密教文化研究所の本年度第一回の研究会があった。
トップバッターは、私が買って出て、「チベット仏教圏形成の力学」の題で話をした。
京都からわざわざ辻村優英さんが来てくれたのがうれしかった。
辻村さんはダライ・ラマ14世の研究で学位を取った人だ。
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青海省南部の玉樹にあるサキャ派の大僧院ジェグ寺。先々代のパンチェンラマが没したのもここだ。
研究ノート

ま、いっか。

2009年06月26日
 上の娘が誕生日の祝に本を贈ってくれた。

 浅田次郎『ま、いっか。』集英社、2009年

 この娘は父親に似ず、賢い。
 「ま、いっか。」で肩の力を抜け、という教えと理解し、早速実行してみると、この呪文、なかなか効果がある。

神田「金土と京都の研究会に行ってきます」
私「なにい?このくそ忙しい時にい!・・・・・・ま、いっか。」

○さん「7月3日までに300字程度で紹介文を書いてください」
私「ええっ、まだ何も考えていないんだけど・・・・・・ま、いっか。」

店員「お客さん、こっちからはドライブスルー入れないんだけど」
私「何だと!あの角に立ってる男が、こっちに回れと合図したハズダガネ!!・・・・・・ま、いっか。」

「ま、いっか。」と唱えると、気持ちが楽になり、心に余裕ができる。もう7月。今年の下半期は、これで行こうと思う。









ある大学教員の日常茶飯

霧の中の桜の古木

2009年06月24日
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この樹は密教文化研究所の裏にある。苔むした樹皮が樹齢を感じさせるが、毎年、下界からは大分遅れるものの、確実に花を咲かせ、私たちを何度目かの花見で楽しませてくれる。人もまたかくありたきもの。
ある大学教員の日常茶飯

ディディゴ、ヒマラヤに出発

2009年06月23日
千早村のディディゴがヒマラヤに旅立った。西ネパールのムグあたりで、先乗りしているタイフーンのパーティーに合流するという。

台湾からメールがきた(原文はローマ字):

こんにちは。
ただいま台湾です。
安いチケットだからのりつぎおおい。
ネットフリーみつけました。
これから香港経由でネパールです。
台湾初上陸です。
日本とおなじですね。
ではいってきます!


彼女のブログはテンションがめちゃめちゃ高い。それに写真がいい。興味のある人は見てやってほしい。
http://denali6194.exblog.jp/

ディディゴにはタイフーンへのメッセージを託した。はよ無事に帰ってきて、テンジンノルブの仕事せい、もう歳なんやから、無理したらあかんで、と。

旅立てる奴は、そりゃあええわな、とむくれていたら、夕方になってひとついいことがあった。詳しくは書けないが、人間はやっぱりコミュニケーションが大事だということである。

ある大学教員の日常茶飯

おたずね者

2009年06月20日
 ここ一年あまり、いろいろな人に「おたずね」攻撃して迷惑をかけている。
 学内では、中国哲学の南、西洋哲学の山脇、社会学の藤吉の各氏が主な標的だ(藤吉さん、オーギュスト・コント、忘れないでよ)。
 学外では、T村氏に被害が集中している点に特徴があるが、その他にも、Y田、T内、M居の諸氏、南方熊楠顕彰館の皆さん、また最近では、K-GURSの関係者にまで被害が拡大中だ。何せK-GURSには仏教諸宗派のみならず、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の専門家がそろっているから、「おたずね」のし甲斐もあろうというものだ。さらにひと月ほど前にはM方先生、二三日前からは、T上氏がこれに加わった。氏の専門とするところの孫文の関連であるが、私は氏の反撃のものすごさに、おやじギャグで応じるしか手がなかった。

「それじゃあ、アールス・コールトのメイズの生垣は、孫文先生が壊してなくなったということにしておくんない、ネエさん」
「孫文先生はそんなことされません」

 どんなことでも、自分で調べるのが何より大事なことは分かっている。しかし、熊楠の博引傍証についてゆくのは並大抵のことではない。それに、専門家というものは、門外漢には想像もつかない裏技を持っているものだ。その知恵をちょっと借りようというのである。

 みなさんあと今少しの御辛抱を!

研究ノート

6.19

2009年06月19日
 午前8時過ぎに研究室に入り、9時10分から1時間目の授業。インド密教史概説。
 11時半に食堂に行って、昼食。メインはタンドリチキンだ。
 午後1時20分から3時間目の授業をやり、院生と『プトゥンの仏教史』を読む。
 3時から通信制大学院生のSさんと面談。Sさんは修士論文の相談のためわざわざ関東から見えた。1時間半ほど図書館の学習室で話をする。
 Sさんを本館の玄関で見送ってから、部屋に戻り、メールを出したり、原稿を書いたりしている間に、仕事で人に会いに行かなければならない7時が近づいてきて、うっかり夕食を食べそこねてしまう。
 10時半、打ち合わせを終えて研究室に戻り、途中で買ってきたおにぎりを食べる。
 こうして今日も一日が終わる。

 今日、6月19日は、世間では太宰治の誕生日(桜桃忌)だが、私個人としては、自分の誕生日である。

 大分以前のこと、ある同僚と、今自分の人生の何時頃だと思うかを話題にしたことがある。その時、彼は確か夕方の5時頃だと言ったと思う。

 これに対して、私は、午前11時半と答えた。その時にはまだ本当にそう思えた。それに11時半から12時までの30分間は、私が一日のうちで一番好きな時間帯なのである。

 今はまさか11時半でもなかろうが、そのくらいの気持ちでやってゆきたいものだ。

 
 

 
ある大学教員の日常茶飯

今の季節

2009年06月17日
今の季節、高野山は、春の空気と夏の空気がまだ完全にはまじりあわないで、交互に流れているように感じられる。今日は夏の日だった。
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昼下がり、高野山大学の図書館閲覧室でエレクトーンの演奏会があった。この建物は国の登録有形文化財になっている。新緑の窓がまるで緑のステンドグラスのようだ。

高野山大学の力

哀悼 三沢選手

2009年06月16日
プロレスラーの三沢光晴選手が試合中の事故で亡くなった。

 いわゆる「必殺技」もみんなが使いだすと、どういう訳か単なる痛め技に堕してしまう。その一つがバックドロップだが、今回の事故はこれが原因らしい。

「すべてのプロレスはショーである」(ミスター高橋)

 しかしこのショー、やはりかなりの危険性を伴うものであったのだ。

 私は新日ファンであるだけ、全日系の選手には関心が薄かったし、プロレスブームが去った後、彼がどうしてきたかもまったく知らないが、私のイメージの中にある三沢選手はバランスの取れたいいレスラーであった。二代目タイガーマスクで売り出した時には、初代の印象が強烈すぎたためか、何だフェイクか、といった感じだったが、今から思えば、あれも会社の営業方針にいやおうなく従った結果だったのかも知れない。哀悼。 
ある大学教員の日常茶飯

小島章司さんのフラメンコ

2009年06月14日
 今日は、青葉祭の前夜祭があり、御山はいつも以上に賑わった。

 夕方、伽藍の金堂特設ステージで行われた小島章司さんのフラメンコ奉納公演。声明とのコラボレーションである。

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ある大学教員の日常茶飯

大正期に来日したチベット僧リンチェン

2009年06月10日
藤本さんから送ってもらった資料は、藤本さんのお父上、藤本真光師(元高野山大学教授)が所持しておられた在中国日本公使館発行の証明書とはがき二枚で、すべて大正期に来日したリンチェンというチベット僧に関わっている。

従来、私は、アジア歴史資料センター所蔵の文書から、大正6年に初来日して、その後も日本を再訪するリンチェン(林臣)というチベット僧がいることを知っていた。彼は初来日の時、東京で真光師に就いて学び、二回目の来日も、その時には高野山大学の教授になっていた真光師を頼ってのものだった。

また、大正14年にはツェワン・リンチェンというデルゲ出身のカルマ派僧が来日したことも分かっていた。この年に中国を旅した河口慧海が連れ帰ったもので、このリンチェンは、東京の根津宮永町の慧海の自宅に寄宿した。はっきりはしないが、数年間は日本にいたようである。

ともにリンチェンだが、これはありふれた名前だから、簡単には両者を同一視できない。

それが今回藤本さんから送っていただいた資料で、同じ人物であることがはっきりした。

はがき二枚は、大正15年の夏にリンチェンが根津の慧海宅から高野山の真光師宛に出したチベット文のもので、真光師を慕う気持ちがよく表れている。

当時ラマ僧の来日が非常に珍しかったかといえば、かならずしもそうではない。しかし、リンチェンは、慧海の助手としてチベット大蔵経の書写をしたりして、結構な働きをした男である。その彼が実はそれ以前から日本に来ていたわけである。大正6年に東京で真光師に教えてもらっていたということは、当然、真光師のチベット語の師匠である慧海とも会っていたと見てよい。

今まで考えていたのとは、ちょっと違った構図が見えてきておもしろい。それに、このチベット僧と高野山との関係が意外に深いものであったらしいことも興味深い。
もうひとつ、真光師の高野山の住所が千蔵院となっていることにも私は少しだけ驚いた。千蔵院は、明治15年に南方熊楠が家族といっしょに高野山に詣でた時に宿泊した寺である。まさかその時給仕に出た小僧の中に真光師がいたわけではないようだが、ここにも深い縁を感じる。









研究ノート
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