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タワーからの眺め

2009年05月31日
一昨日の高所プロジェクトの勉強会、昨日のサバー、共にとても楽しく有意義だった。
 勉強会では、斎藤先生、プロジェクト・リーダーの奥宮さんをはじめ皆さんにとてもお世話になった。種々気を使っていただいた小坂さんにも御礼を言いたい。

一緒に発表したツルティム・ケサン先生と久しぶりでお話できたこともとてもよかった。珍しい写真が見られたとお喜びいただいたのも、嬉しかった。私の発表題目は「チベット民族の活動とチベット仏教圏の形成」。大雑把な内容だが、チベット文明の形成と展開を大づかみにしたいというのが、私の意図である。

京都のホテルの受付に京都タワーの只券が置いてあったので、それを使って初めてタワーに登ってみた。100メートルの高さから見ると、京都が実にコンパクトにまとまった町であることが分かる。東本願寺と西本願寺が意外に近いのにも驚いた。角度が違うと同じものが全然別のものに見える、という、考えてみれば当り前のことを実感した。

夕方、韓国伝統芸術院にちょっと早く着いたら、ヨウ先生がお弟子さんたちに稽古をつけている。巫女の踊りだという。結構なものを見せてもらった。

 ここでの話は「熊楠vs法龍」。キム先生をはじめとする皆さんからいろいろ質問をもらったのがよかった。幹事の上野さんにはすっかりお世話になりました。



 
ある大学教員の日常茶飯

小巡業

2009年05月29日
 先に書いたとおり、今日は京都の勉強会で大切な発表がある。その後、もっと大切な懇親会もある。そのため今夜は京都に一泊する。

 さらに、明日の夕方、大阪の今里の韓国伝統芸術院で開かれるサバーで話をする。サバーは先輩の古坂さんが主宰する気楽な研究会だ。
 最近すっかりご無沙汰していたので、話をすることそのものよりも、ヨウ・ヨンファさん(韓国伝統舞踊のカリスマ)をはじめメンバーに会えるのが楽しみだ。

 ということでこれはちょっとした巡業です。
ある大学教員の日常茶飯

地球研、高所プロジェクト勉強会

2009年05月28日
金曜日に京都で、総合地球環境学研究所(地球研)・高所プロジェクトの勉強会があり、私も一席やらなければならない。昨日はその準備に一日費やしたが、まだまだ終わらない。というのも、今まで撮りためた、と言えば聞こえがいいが、その実、未整理のまま放置しておいた写真が山のようにあり、そこから必要なものを掘り出して、パワーポイントにする作業に膨大な時間がかかるのである。
これを機に、心を入れ替えて、整理整頓ができる人間になろう。

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青海省のゴロク蔵族自治州の中心地、マチェンで開かれた競馬会での一こま。まあ、彼らのファッションショーですな。
研究ノート

読書

2009年05月25日
私はあまり読書をしない。商売柄、文字には朝から晩まで目を通しているが、それは資料調べであって、読書とはかなり違う行為だ。今は特に、じっくり味読している時間がないので、読むというより、字に目をさらしているという感じである。

私が日々接しているのは、仏典であれ、漢籍であれ、西洋の哲学書であれ、人類の知の宝庫と呼んでさしつかえないものばかりだから、こういう接し方は、実にもったいないことだと思っている。
そのうち時間ができたら、純粋に楽しみだけのために、こうした哲学書とか、科学の古典とか、古今東西の名作を読み耽りたいと思うのだが、おそらくそういうことは、ずっと先にしか実現しないだろう。

読まないで書いてばかりいると、自分の文章がまるで小学生の作文のようになっているのに気づくことがある。別に小学生の文章が悪いというわけではないが、要するに文章に切れと締りがなくなり、もたもたべたべたした幼稚な文章になるということである。

そういう時、私は、好きな文章を読むことにしている。これは自分の文章を正すためであって、知識を得るのが目的ではないから、本のどのページから読み始めてもよいし、同じ個所を何回読んでもかまわない。できれば音読するのが効果的だ。

これをしばらく続けると、頭がリフレッシュされて、文章にリズムを取り戻すことができる気がする。













ある大学教員の日常茶飯

ヴィスヴァナータン教授の講演会

2009年05月23日
昨日の夕方、人文研で開かれたガウリ・ヴィスヴァナータン教授(コロンビア大学)の講演会「オカルトの伝達」に行った。
普通はこういう催しには、なかなか行かないのであるが、人文研の田辺先生がかなり前から熱心に誘ってくれるので、重い腰を上げたのである。

しかし、何か必ずコメントせよ、との命である。やれやれどうなることか、と思いながら出かけた。

実際はどうだったかというと、これが実に実に、最近ではちょっと記憶にないほど、おもしろかった。彼女(教授)の話の内容の濃さ、司会の田辺さんの手腕、ディスカッサントたちのおもしろいコメント、その後近所で開かれた懇親会のほどよい気持ちよさも含めて、実にいい講演会であった。

会場には日文研のI 先生もコーディネーターとして来られていたので、別れ際に、「神田がお世話になってます。体だけは強いので、かまいませんから、めちゃくちゃこき使ってやってください」と念押しで頼んでおいた。



研究ノート

上座部比丘になった卒業生たち

2009年05月21日
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高野山大学の力

イエスの失われた十七年

2009年05月20日
 『ダ・ビンチ・コード』の次が『天使と悪魔』である。イエス外伝、キリスト教異聞は、今もキリスト教徒を引きつけてやまない魅力があるようだ。
 
 去年度、熊楠の手紙を研究するために大量の本を買った。その中に、

  プロフェット著、下野博訳『イエスの失われた十七年』立風書房、1998年

がある。
 これを買ったのは、熊楠が〔高山寺〕所蔵の書簡の一つに次のようなことを書いているからだ。

近頃、チベットで秘密の書を発見し、イエスの伝記をくつがえす珍書を著した豪傑がある。インド北部に住むある女性とマックス・ミュラーがこれを論駁した。ところがこの男は一向に服せず、反駁を試みたが、新聞各紙はこれを相手にしなかった。そこで男はこの女性と直接対決するためにインドに渡り、さらにこの書を写し取るためにチベットに入ることに決した・・・

熊楠がこれを書いたのは1894年の10月であるから、この年欧米でかなり話題になった出来事と推察された。チベット関係のこととあっては、「不詳」ではすまされない。何回か検索をかけてみたら、プロフェットのこの本がひっかかってきた。

この本で分かったことは、ロシア人のニコラス・ノートヴィッチなる人物が、ラダックのへミス・ゴンパで発見したという『聖イッサ伝』という秘書に基づいて、『イエス・キリストの知られざる生涯』という本を出版して話題となったのが、まさにこの年であったということである。これによるとイエスは東方に旅し、インドからチベットに入り、ラサに到達した後、ラダックを経由してパレスティナに戻ったことになっている。この書はマックス・ミュラーらから手厳しく批判された。熊楠のいうインド北部の女性とは、ミュラーに一報してノートヴィッチの「嘘」を告発したレー在住のイギリス女性と思われる。


ノートヴィッチのこの本自体は、いわゆるトンデモ本の域を出ないもののようであるが、ラーマクリシュナの高弟アベーダーナンダや芸術家のニコライ・レーリヒなど、当時の神秘主義者に与えた影響は大きかった。

真相は不明だが、幻としか思えないものが人を動かした例の一つである。熊楠が、無条件でノートヴィッチの肩を持っているらしいことは、マックス・ミュラーへの反感を割り引いても、あまり感心したことではないが。

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ラダックのへミスで毎年行なわれるツェチュ祭。パドマサンバヴァの偉業を再現する春の祭だ。1994年6月撮影。





研究ノート

マスク

2009年05月19日
私もついに外出時はマスクをしはじめた。
土曜日、京都で乗った電車の中で、向かい合わせに座った若い男に無神経にゴホゴホやられて、こりごりしたのである。

というわけで、昨日は人文研に出かけたのだが、自分がマスクをしはじめたせいか、マスクをした人がやたらに目につく。それでも行きの地下鉄では、マスク着用率は2、3割程であった。

ところが、帰途、泉北高速鉄道の車内で、目に入る限りの人で数えてみると、マスクをしている人が20人中9人に達している。他に、マスクはしていないものの、タオルで鼻と口を押さえている女性が2人。こうなると、もはやほとんどの人がマスクをしているという感覚である。

京阪も地下鉄も南海も、放送でひんぱんにマスクの着用を呼びかけている。

パンデミックとはこんな風にしてはじまるのか、と思った。

あまり神経質になるのもどうかと思うが、万一発病して、周囲に迷惑をかけては、と考えると、ついこういうことになってしまうのだろう。

ちなみに大阪府下の多くの学校が昨日から今週いっぱい休校に入った。

ある大学教員の日常茶飯

太秦広隆寺

2009年05月16日
 所用で京都に行ったついでに太秦(うずまさ)の広隆寺を訪ねた。
 広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を知らない人はいないだろう。

 しかし今回この寺を訪ねたのは、熊楠がらみである。熊楠は〔高山寺〕の書簡の一つで、広隆寺の本尊薬師如来の両脇侍は異様なもので、普通の仏菩薩ではない。太秦広隆寺は、唐朝の大秦寺、つまり景教(ネストリウス派キリスト教)寺院を模したものであろう、という太田錦城の意見を紹介している。

 太田錦城は江戸時代後期の儒学者であり、この話は太田の随筆集『梧窓漫筆拾遺』に出ている。
関連個所を引用しよう。

 本尊は薬師などにて。常の仏像なり。左右の脇立に細く長き笠を蒙りて。棹の先に銀の月金の日を差し上げたる像なり。仏家のものとは。努々(ゆめゆめ)思はれず。波斯(ペルシア)大秦(ローマ)などの天教を奉ずる家の。像設たること明白なり。此等の穿鑿は無用の事なれど。此事を知り。此事を言ふは。天下に我一人なり。・・・・
(括弧内引用者)

 ここまで調べて、私は、はて、広隆寺にこんな異形の像があったかしらん、と思い、しょっちゅう京都に行っているのだから、これを確認しないでは手抜きの誹りを免れない、と考えて、行ってみることにしたのである。

嵐電(らんでん)に乗って、広隆寺前で下りる。

霊宝殿で目当ての仏像に対面する。本尊は勅封ということで厨子は閉じられていたが、脇侍の日光菩薩と月光菩薩は間近で拝観することができる。

ははん、なるほど、盛り上がった宝髻を笠に見誤ったのね。

すぐに結論が出たので、あとは霊宝殿の見事な仏たちをゆっくりと拝んでから、帰途についた。

肩すかしを食ったようなものだが、気分はさわやかだった。

ネットで見ると、この寺の創建にまつわり、太田の説も含めて、さまざまな「歴史ロマン」が飛び交っているのが分かる。それ自体を云々するつもりはないが、その根拠とされるものまでたどって確認しつつ進められた論がはたしてどれだけあるかは疑問であった。

研究ノート

負託

2009年05月12日
私「神田君、これを見たまえ」
神田「おっ、Y田先生の論文ですか」
私「そう、一昨日、田辺でもらった。まだゲラの段階のを特別に見せてくれたのだ」
神田「どうです」
私「おもしろい、刺激的だ。しかし、」
神田「しかし?」
私「今僕が言いたいのは別のことだ」
神田「といいますと」
私「日本中、いや世界中で熊楠の研究者がどれほどいるかは知らないが、そのなかで常々こうして論文や評論を公にしている人間の数は限られている」
神田「そうですね。あの人とあの人とあの人・・・という風に顔が浮かぶくらいです」
私「そうだ。そしてその人たちは、今われわれが何をやっているかを知っている」
神田「まあ、何人かはそうでしょうね」
私「そしてそのうちの何人かは、自分の研究にとって〔高山寺〕資料が決定的に重要らしいということをうすうす感じているはずだ」
神田「まあ、そういうこともあるかと」
私「ところが、彼らは文句ひとつ言わずに、私たちの仕事が終わるのをじっと待っている。友だちだから、知り合いだからといって、横から見せろ、などと言ってくる人は一人もいない。マナーよく、みんな待っていてくれるのだ」
神田「まあ、大体の人はそうかと」
私「これは負託だ。私たちはいい仕事を一刻も早く出す責任があるのだ。もう何回見ても□□が埋まらないなどと贅沢な泣き言を言っている場合ではないし、オーサカのジャズ喫茶に入り浸っている暇もないのだ」
神田「分かりました! いっそう奮起します。これからは『般若心経』を唱えながら作業することにします!」
私「よし、その意気だ!ちょっと違うような気もするが」
研究ノート
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