FC2ブログ
03月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫05月

笠原研寿の『ダルマサングラハ』

2009年04月28日
Dharmasamgraha_convert_20090428190335[1]
                    (高野山大学図書館所蔵)

能海寛は明治29年3月から東京麹町の南条文雄(なんじょう・ぶんゆう)の家に内弟子として住み込んだ。この頃、彼が勉強していたものの一つが本書である。


これは南条といっしょにイギリスに留学して、共にオックスフォードのマックス・ミュラーの下で学んだ笠原研寿(かさわら・けんじゅ)の遺稿をミュラーとウェンツェルが整理して刊行したものである。

『ダルマサングラハ』は梵語で書かれた仏教術語集である。能海は、ここから梵語の語彙を収集して、漢語と対応させ、英訳を付している。本書は、こうした基礎的な訓練にはもってこいのものだった。

笠原は留学中に勉強しすぎて肺患を悪化させ、一人無念の途中帰国を余儀なくされて、日本で死んだ。それは能海が雲南の奥地で消息を絶つ18年ほど前のことである。

ミュラーは、『タイムズ』に追悼文を寄せ、その早すぎる死を惜しんだ。その一部を前嶋信次先生の訳(『インド学の曙』pp.72-74)で読んでみよう。

「日本よりの最近の郵信は、わが若き友にしてかつ門人なるケンジュ・カサワラの死を報じ来った。(中略)
わがこの仏弟子なる友の生涯はその道に身をささげ、しかも成果をえなかった多くのものの一であって、われのこれを讃嘆し痛惜するは、あたかも己れが庭園のよき果物の若木が爛漫たる花の匂いながら、そのあらゆる美しさと将来の待望とを、一朝の厳霜にて凋落せしめられたのを見るにも似ている。……
彼は日本に帰って後はもっとも有為な人となったであろう。なぜならば彼はただに欧州文明の長所をあまりなく評価しえたばかりでなく、己れが民族的の誇負をもうしなわず、けっして単純な西洋文化の模倣者とならなかったと思われるからである。(中略)
……彼はいくつかの草稿をあとにのこして去り、われはその公刊の準備にあたり得んことを望んでいるが、とりわけてナーガールジュナ(竜樹)の著とされた仏教術語集『ダルマサングラハ』を挙げる。多年蛍雪の労も、ついにその果を結ばぬと考えることは痛ましい。しかし、三千二百万の日本仏教徒の中にあって、かの一顆のすぐれて覚りを開きえた仏弟子が、いかにあまたの善事をもなすべかりしものをと考えるのは、さらにいたましいことである。(Have, pia anima !)(なおきみたまよ、いざさらば)……」

ミュラーのこの嘆きは、能海の場合にもそっくりあてはまる。日本の近代仏教学が、このような犠牲の上に築かれたことが改めて痛感される。




読書案内
 | HOME |