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美輪さん、テンショウの方が

2009年01月09日
 私はテレビが大好きである。オフの日、家族の干渉さえなければ、一日中でもテレビの前にいるだろう。どれを見るでもなく、だらだらとチャンネルをかえつづけるのが好きだ。

 だから普段はできるだけテレビに近づかないようにしている。夜中に曼荼羅荘に帰って寝る前にちょっとだけ見る。

 二三日前の夜、そうやってテレビをつけたら、ジュリーが嫋々と歌っている。それが終わると今度は美輪明宏さんが出てきて、喜納昌吉の「すべての人の心に花を」を歌うという。

 本人による説明の中に、「テンセイリンネ」ということばがあった。これにNHKがご丁寧に転生輪廻の字幕を付けた。
 「リンネテンショウ」と言ってもらいたかった。あまりうるさいことは言いたくないが、美輪さんの一言は、仏教学者が束になってもかなわないほどの影響力があるからだ。
 もっとも、美輪さんが独特の世界観の持ち主であることは周知の事実だから、この場合もやはり「テンセイリンネ」でなければならないのかもしれない。
 
 歌は、すごかった。「花」をあれだけ自己流に解釈することは、他の誰にもできないだろう。

 ただ、その前に沢田研二を見たせいか、一瞬、同じ転生でも、深作欣二監督の「魔界転生」を連想してしまったが・・・。

ある大学教員の日常茶飯

常山紀談

2009年01月07日
 今日から事務が仕事を始め、図書館も開いて、2009年が本格始動した。
 図書館が開いてくれたのが何より嬉しい。
 さっそく調べたのは、大田南畝の『一話一言』である。熊楠は、これとか、湯浅常山の『常山紀談』や『文会雑記』など、江戸の文人の著作はよく読んでいる。中には風来山人こと平賀源内の『江戸男色細見』、別称『菊の園』などというのもある。
 私にとって、こうした書物は、今の仕事がなければ一生目をとおすことはなかったはずの本たちである。
 まあ、・・・・ありがたいことだ、と言っておこう。

 ちなみに『常山紀談』は有名な武将史談集で、このあいだ、本屋で「天地人」あやかり本を立ち読みしたら、この書からの引用が目に付いた。そのうちの一つを紹介しよう。

 伏見の城にて諸大名いくらも並居たる中に、伊達政宗懐中より金銭取出して人々に見せられしに、其頃金銭の始まりしころにて、珍しとてもてはやさる。直江が末座に有りしを、「これ見られよ」と有りし時、直江扇の上に金銭を置きて打ち返へし、女童のはねつくやうにして観しかば、政宗、「いや苦しうも候はず。手に取られよ」と言ひも終らぬに、直江、「謙信の時より先陣の下知して麾(ざい=采配)取り候手に、かかる賤しき物とれば汚れ候故、扇に載せて候」とて政宗のかたに投げ戻しけり。(『常山紀談』巻之十一)

 史実性は私には判断できないが、政宗に喧嘩を売るとはいい度胸ではないか。「謙信の時より」というのが泣かせるし、諸大名に金貨をみせびらかしている政宗も、戦国のモダニストという感じで決して印象は悪くない。

*なお上の引用は、菊池真一氏の翻刻本(和泉書院索引叢書30)に基づいたが、送りがなをいくつか加え、いくつかの漢字をかなに置き換えてある。正確なテキストは、この翻刻本でご覧ください。
研究ノート

直江兼続その他

2009年01月05日
直江兼続が、東西対決の重要な時期になぜ北の最上を攻めて山形に侵攻してきたかは、そのうちNHKの「その時歴史は」あたりで解説されると思うが、私のような地元民にとっては、直江軍は侵略者である。中学生の時、社会の先生から、その視点で合戦の模様をおもしろおかしく聞いた記憶がある。
 
 直江軍には例のかぶき者で有名な前田慶次などもいたから、ドラマではそのあたりをおもしろくやるのだろう。
 もしも上杉勢が、小山から引き返した徳川軍を追撃して江戸に迫っていたら話はもっとおもしろくなったろうに、残念なことをした。もっとも上杉だけで江戸を攻めるのはたぶん無理で、宇都宮あたりでもたもたしているうちに、背後から伊達政宗に襲われたかもしれず、どう転んでも勝ち目はなかったように思われるが、こうしたことについても歴史家のくだけたコメントを聞いてみたい気がする。

 以下、私事中の私事にわたるが、
 
 私の母方は谷といって、その先祖は幕末まで山形にあった水野藩に仕える武士であった。水野忠邦が天保の改革に失敗して失脚し、浜松にあった水野藩は二つに分けられて、その一つが山形に左遷された。これにのこのこ付いてきた下級武士がご先祖様の一人というわけである。温暖な浜松から来たのでは、まずもって夏暑く冬寒い盆地の気候に苦しんだだろうと思われる。浜松近辺には谷という姓は少なくないらしい。

 今の大手町、昔の霞町(かすみちょう)にあった母の実家は、山形城が取り壊された時の古材で建てられたものだった。家は古いが使われているのは桐だ、と亡父が話していた記憶がある。子供の頃まで、そのあたりの古老はみな浜松弁をしゃべっていた、とは母方の祖父(1900年生まれ)から昔聞いた話である。それでは、その前はというと、九州の唐津から来たのだという。調べてみると、水野藩は唐津から浜松に転封しているから、この話は本当なのだろう。
 幼年時代、私の家は霞町にあって、城跡の霞城(かじょう)公園は遊び場だった。その後、小学1年生の時に郊外に引っ越したが、故郷といえば、あの町の風景だけでなく、空の色までが今もありありと目に浮かぶ。
 
ある大学教員の日常茶飯

初仕事

2009年01月03日
 子供の頃、日曜夜8時は家族で大河ドラマを見ることが決まりだったため、ほとんど見なくなった今も「次の大河」は何となく気にかかる。
 明日からが「天地人」、そしてこの秋から3年かけて「坂の上の雲」スペシャルだそうな。
 
 直江兼続が主人公というのは、あまりのマイナーさにちょっと驚いたが、ドラマは料理のやり方次第だから別に構わないのだろう。それに今回は、私にとってはある意味「ご当地」である。覗いてみる回数は多少増えそうだ。
 ところで、直江が兜の前立に「愛」の一字をかかげていたことについて、てっきり、これは愛染明王の愛に違いない、と思っていたら、そうじゃなくて仁愛、慈愛の愛だそうな。これって本当なんだろうか。

 「坂の上の雲」の秋山真之=本木雅弘には文句がない。というより他の顔はなかなか思い浮かばない。注文をつけるとすれば、このドラマを「明治の青春群像」とか何とかでごまかさずに、日露戦争をきっちり描いて欲しいということだが、これはどうなるかそれこそ見ものである。
 
 1890年、潮岬に近い大島の岩礁でオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が遭難し、その生存者をイスタンブルに送致するために、日本海軍の練習艦「比叡」と「金剛」が出動した。この両艦にセイロンのコロンボから二人の僧侶が乗り込んだことは、海軍の公式報告書には一言も記されていない、知る人ぞ知る事実である。
 「比叡」には当時まだ少尉候補生だった秋山真之が乗っていた。秋山将軍にはとても親切にしてもらった、とは二人のうちの一人、鯖江出身の真宗僧侶小泉了諦の述懐である。
 去年の11月に二人の残した記録を基に「明治インド留学生の見た「比叡」と「金剛」の航海」という論文を書いた。御山に戻って真っ先にしなければならないのは、そのゲラに直しを入れて「版元」に送り返すことで、これが今年の初仕事らしい初仕事になる。
 
ある大学教員の日常茶飯

謹賀新年

2009年01月01日
 近くの多治速比命神社に初詣。この神社は延喜式内社で、祭神の多治速比命尊は日本武尊の妃とされる。そういえば、日本武尊を祀る大鳥神社もここから遠くない。この神社の宮山はこの地区の中心だ。うちの初詣はこの神社と決まっている。
 
 娘が大吉を引いて喜んでいる。そうそう、その調子だ。その調子でゆかなくちゃ。
 
 改めてこの神社の沿革を見ると、明治40年から近所の三社が合祀されている。なるほどここも神社合祀の舞台であったのか。今の仕事が終わらないと何をみても熊楠です。

 ともあれ、今年一年、よろしく御願いします。
ある大学教員の日常茶飯
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