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年の瀬のエアポケット

2008年12月27日
年末年始の諸行事が動き出す前の、妙に静まりかえった時間を楽しんでいる。

 私がいる密教文化研究所の2階には合同研究室と院生諸君の研究室もあり、今は修士論文のための居残り組ががんばっている。
 彼らはときどき、蜂蜜のたっぷり入ったレモンティーやインド風ミルクティーのチャイをポットごと持ってきてくれる。
 それをカップになみなみと注いでもらって頂くと、眠気もふっとんで、またやる気がわいてくる。ありがたいことである。

 

 

 

 
 

 
ある大学教員の日常茶飯

カンダタイイッ!

2008年12月25日
 ガチャピンがスポーツ万能のスーパー着ぐるみであることは知っていたが、ヒマラヤまで登るとは思わなかった。某社のケータイのCMである。

 しかしあのヒマラヤは本物だろうか。たとえ本物だとしても、大相撲でいえば、序の口クラスだろう。おまけに流れる曲が「八甲田山」のテーマである。
 
 ひょっとするとお父さん犬の声の北大路さんに合わせたものかもしれない。そうすると最後には彼らも雪に埋もれるのかな、などとどうでもいいことを考える。

 「八甲田山」は森谷司郎監督の大作映画である。原作者の新田次郎をして、私の雪の描写はあまかった、といわしめた超弩級遭難映画である。今と違ってCGなどない時代のことである。キャストもスタッフも本当に遭難しそうになりながら撮ったという迫力が画面から伝わってくる。
 私はこれを仙台の映画館で見たが、始まる前、前の回を見たおじさん二人が席を立たずに声高に議論しあっているのを聞いて、それだけの映画なのだなとわくわくしたものだ。彼らは仕舞いには隣の席の女性に注意されていたが。
 エリック・バリの「キャラバン」もそうだが、この映画、リーダーシップとは何かを深く考えさせる。

 さて、先日御山にきた雲藤さんが、休憩時間に突然「神田大尉!」(三国連太郎のまね)と叫びだしたので、「神田はおらんか!」と応じたら、こちらが驚くほど喜んでくれた。ついでに「雪の進軍」でも歌ってあげようかと思ったが、ひっくりかえって笑い転げられても困るので止めた。これも「八甲田山」である。

 なにしろ雲藤さんは生まれてこのかた映画は二本しか見たことがなく、そのうちの一本が「八甲田山」というヘビーな体験の持ち主だ。
 では次は「はなれ瞽女おりん」と「津軽じょんがら節」と「飢餓海峡」をビデオ屋で借りていっぺんに見てください、とアドバイスしておいた。どうなっても知らんが・・・。

 そういえば、今年亡くなった緒形拳さんも「八甲田山」に出ていた。惜しむ人が多く、まさに哀悼だが、よくよく考えてみると、私は俳優としてのこの人は今ひとつ好きではなかったという気がしてくる。

 しかし今村昌平監督の「復讐するは我にあり」での演技は印象に残っている。特に、よく言われることだが、競艇場での清川虹子との掛け合いには凄みがあった。もっとも、これもよくよく考えてみると、若い私は、むしろ小川真由美と倍賞美津子の、それこそ体をはった演技に圧倒されていたのかもしれない。
 この映画も仙台で、友人二人と見たのだが、見終わったら、みんな喉がからからに乾いていたので、近くの「明眸」という行きつけの酒場に飛び込んで、ビールで喉を潤したのであった。

 そんなこんなで今年も終わりである。来年もせいぜいがんばって、「天はわれわれを見放した」(「八甲田山」での北大路さんの名ゼリフ)などと叫ばなくてもいいようにしなければならない。
 
ある大学教員の日常茶飯

祇園で忘年会

2008年12月23日
 月曜日は今年最後の人文研の研究会があり、その後、祇園の豆水楼という豆腐料理の専門店で忘年会をやった。

 湯豆腐や湯葉などをつつきながら日本酒をいただくというなかなかおつな会であった。

 
  
ある大学教員の日常茶飯

左利き

2008年12月19日
 私は左利きである。利き目も利き耳も左だ。小学校に上がる前には箸も鉛筆も左手で持っていた。
 今なら、そのまま大きくなったと思う。
 
 しかし当時は「矯正」することが一般的だった。
 私の両親もそう考えたようである。ただ彼らが「偉かった」のは、私がそれと気づかない巧妙なやり方で、これを進めたことである。
 
 私には二歳年上の兄がいる。彼が習字塾に行くことになった。その初回になぜか私も行かされた。先生は女の人で、私たちが帰る時に、兄に「またいらっしゃい」とやさしく声をかけた。兄は私と違って活発なタイプである。家に帰るなり、さっさとどこかに遊びに出てしまった。そこで代わりに私が「また来いって」と報告した。それは「(兄に)また来いって(先生が言っていた)」の意味だったのだが、これを聞いた母は「それじゃ、なおじも行かなくっちゃね」と、さっさと私の入塾を決めてしまった。しかも兄は逃げてしまい、実際に通いはじめたのは私だけだった。
 
 まんまとはめられた訳である。

 最初に書いたのが漢字の「一」であることはよく覚えている。筆を持つと右手にはまったく力が入らなかったので、ぐにゃぐにゃになって、半紙からはみ出した。
 習字自体はおもしろくもおかしくもなかったが、私は、先生に時々うどんなどをご馳走になりながら塾通いを続けた。
 そして、気がついた時には右手で字や絵がかけるようになっていた。一時は両手が同じくらい使えたので、大人たちに珍しがられた。だがやがて箸と鉛筆を操る能力は完全移行して、右手だけのものとなった。
 一方、運動系はそのまま左に残った。ハサミは左手でなければ使えない。また木のへらを使ってアイスクリームを食べる場合もなぜか絶対に左である。

 この件で私にはトラウマらしきものは何も残らなかった。しかし、習字塾通いは、親の意向で、場所を変えてその後何年も続けられたが、こちらの方はちっとも上達しなかった。そのため今も下手な字を書き続けている。
 あれだけ通えば、普通は行書や草書が読めるようになって文書の読解などに役立ちそうなものだが、いやいや通ったこともあって、こちらの方もさっぱりである。いや、さっぱりどころか、書を見ること自体が苦手で、できれば避けて通りたい。トラウマというなら、これがトラウマかもしれない。

 だから、数年前に関西熊楠研究会に行き始めた時も、自分には熊楠の文字は絶対に読めるようにならないという確信があった。はじめからそんなだから、案の定そうなった。今後も読めるようになる気遣いはない。


 

 
 
 
ある大学教員の日常茶飯

慶応大学でのシンポジウムに行く

2008年12月16日
 先週の土曜日、慶応大学で開かれた公開シンポジウムに出席した。ことのおこりは、代表をつとめる小川原正道先生から連絡を受けたことだが、それはアメリカDuke大のリチャード・ジャフィ先生のアドバイスによるものだった。
 
まあ、同じようなことをしているのがいるから、声をかけたら、ということであろう。せっかくだから、スケジュールを調整して行くことにしたのである。

 テーマは「近代日本の仏教者が『体験』したインド・中国」

パネリストは、陳継東、中島岳志、ランジャナ・ムコパディヤーヤの各先生、コーディネーターは山口輝臣先生だった。小川原先生も含めてみんな若い!

 会場には、むろんジャフィ先生もいらして、初めてご挨拶した。「先生はこの分野の開拓者ですね」というありがたいお言葉を賜ったので、「先生が岩波の『思想』に載せた『釈尊をさがして』が学界に大きな刺激を与えたのです」と返した。

 シンポジウムはとても刺激的なもので、3時間半がひどく短く感じられた。終わって懇親会があり、これまたおもしろく、いくら話しても話し足らないくらいだった。
ジャフィさん、陳さんと田町の駅までふらふら歩き、そこで二人と別れて品川近くのホテルに向かった。
 翌日、私もこの分野でもう一発ガツンとやらねば、と思いながら家路についた。
研究ノート

赤めだか

2008年12月14日
 立川談春の『赤めだか』(扶桑社、2008)を読んだ。
 評判どおりのおもしろさで、いっぺんに読んでしまった。その間に10回くらい声を出して笑った。さすがに泣きはしなかったが、何回か感動させられた。この芸は並ではない。
 
 主な内容は、師匠立川談志の下での修業の年月である。

 わがままな師匠とそのきまぐれに翻弄される弟子たちのハチャメチャナな日々、といったよくあるような(?)タレント本、芸人本ではない。印象的なのは、談志という稀代の落語家の、弟子の教育に対する驚くほどの真剣さだ。

 ああ、おもしろかった、で本を閉じたが、この人の著書をこれ以上読もうとは思わない。彼も噺家なのだから、文筆で売れても仕方がないだろう、というのは余計なおせっかいだろうか。
 
 ただ本書の次の言葉は座右に置いて、「反抗的な」院生の戒めに使ってやろうと思う。

  「修業とは矛盾に耐えることだ」

 なあ、神田君。
 
読書案内

無題

2008年12月10日
 私は朝が弱い。血圧が低くて寝起きが悪い、というようなことではない。

 夜の帳がすっかり上がって、もうどこにも身を隠す場所がなく、その一方では昼がまだ支配力を行使しきれていない時間帯。要するにこれを朝と呼ぶわけだが、この時間帯がどうにも苦手なのだ。
 意識が不安定で、まだ昼のモードに切り替わっていないためか、まどろみの間に過去の、それもあまり嬉しくない記憶が蘇ったり、考えても仕方がないことがしきりに頭に浮かんだりする。

 こんな時は布団を蹴って起きちまうのが一番だが、最近は季節柄未練たらしく布団にくるまっていることが多い。

 私の好物はナッツ類である。それもチョコでコーティングされたものを好む。コンビニで売っているチョコブロックでかまわない。これをコーヒーのブラックと一緒にいただく。

 カリッ、とした歯ごたえがたまらない。

 固いものをかむことはストレス解消にもつながると思っている。

 そういえば、我が家の愛犬奥山テリー号は、非の打ち所のない名犬、かつ美犬なのだが、一つだけ、ご主人様のワイシャツのボタンをかみくだくのが大好きという悪癖を持っている。
 
 このあいだもつい油断して、カリッとやられてしまった。
 
 年がら年中喰っちゃ寝の太平楽な彼、いや彼女にも、人知れぬ悩みがあるのかもしれない。

 今度帰ったら、よくよく話を聞いてやろう。




  

ある大学教員の日常茶飯

寺本婉雅について

2008年12月07日
 大谷大学での講演は滞りなくすんだ。
 いつもの癖で、内容を盛り込み過ぎたので、一般の聴衆にはちょっとわかりにくいところがあったかもしれないが、皆さん熱心に聴講して下さったと思う。
 大谷大学のロバート・ローズ先生が聴きにきて下さったのも感激だった。

 終わって、この講座を主宰する同大の三宅伸一郎先生に、寺本婉雅(てらもと・えんが)関係資料を見せてもらった。
 寺本は慧海と同時代の入蔵者の一人で、慧海や能海寛(のうみ・ゆたか)に比べて、研究が遅れている人物である。その新出資料を三宅さんたちは整理している。

 寺本は、慧海などとは違って、軍部との関係を持つ、ある種志士的な人物であったようだ。かつて慧海もスパイと疑われていたが、今はそういう背後関係はまったくなかったことが分かっている。慧海の場合、背後関係がないと分かって、みんな、よかった、よかった、となっているのだが、寺本がおもしろいのは、むしろ福島安正を始めとする日本軍の諜報関係者と密接な関係があったことだ。それが彼のイメージを損なってもいるのだが、私は、だからおもしろいんじゃないか、と言いたい。
 またそれはそれとして、彼の学問的な業績もきっちり評価しなければならない。だいたいターラナータの『印度仏教史』だって、寺本訳はよくないなんぞと言われながら、みんな参照はしているわけだし。有名は北京版チベット大蔵経は、義和団事件のどさくさの中で日本のものになった。それを最初に見つけたのは本願寺派の川上貞信であるが、それを確保し、軍部の協力で日本に移送した立役者は第五師団司令部通訳官として従軍した寺本である。
 そのこと自体の是非はともかく、それが戦後影印版で出版されたことが、世界の仏教学・チベット学の発展にどれほど寄与したことか。

 三宅さんとは、今度の講座のメンバーを中心に研究会でも立ち上げようと言って別れた。
研究ノート

ハードな一週間

2008年12月05日
 今週はおそらく今年一番のハードな一週間だった。日曜日の夜に、今週しなければならないことを数え上げて思わずぞっとし、なかなか寝付けなかったほどだ。
 
 だがそれも明日の京都での講演で終わりである。
 この講演は、大谷大学で開かれている「チベットに向き合った日本人たち」という講座の一コマで、私の講題は「明治仏教徒の入蔵熱と河口慧海」だ。

 入蔵熱というのは、明治の日本仏教界に起こった西蔵(チベット)入国フィーバーのことをいう。この動きは明治10年代末からぼちぼち見られ、20年代半ばにはかなり大きくなる。この点、30年にチベット旅行に出発した慧海はむしろ「遅れてきた青年」だった。ところが禁断の都ラッサに一番乗りするのは、慧海なのである。しかも彼が進んだのは、ヒマラヤとチベット高原を大迂回する遠く危険なコースだったのだから、人間の運命というものは本当に分からない。
 
 
 
 
研究ノート
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