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東京・高野山日帰り往復

2008年09月28日
 最近、東京と高野山を日帰り往復された奇特な二人を紹介しよう。

 まずはT村さんである。

神田「今日、T村さんが来られます!」
私「どのT村さん?」
神田「あのT村さんです」
私「なるほど、あのT村さんか・・・たいへんだ! 神田君、部屋をかたづけるのを手伝ってくれ」

 私が片付けができない性分であることは、私の部屋を訪れた100人が100人とも同意することだから、たぶん事実であるらしい。
 しかし、さすがT村さんである。私の部屋に入るなり、さびた声で、ぽつりと一言。

「戦場ですね」

 おみごと。

 T村さんが高野山に来られたのは、私が霊宝館の特別展についてブログに書いたのを読み、それをご覧になるためであった。それを聞いて、私は恐縮した。まあ、ものは間違いなくいいのだから、満足して帰られたこととは思うが。

次は読売新聞のU田さん。

 この間東京で開かれた高野山大学医療フォーラムを取材し、急遽、高野山日帰り取材が決まったという。
 
 目的はスピリチュアルケア学科の取材だが、その前に一緒に昼飯を食う。

 今、熊楠をやっていると聞いて、U田さん、「ふむふむ、じゃ、本が出たら連絡してください」

おう!しないでか。その節はよろしくお願いします。

K田君(縮小版)

 
この写真は本文とはまったく関係ありません。土曜日、大蔵会というお祭りのために図書館に展示された資料を覗き込むさる大学院生です。この頭に見覚えのある人は?






 
 
 
 
 
 

ある大学教員の日常茶飯

3000アクセス御礼

2008年09月26日
 4月から始めたこのブログが満6ヵ月を待たず、3000アクセスを超えました。
 アクセスしていただいた皆様おひとりおひとりに厚く御礼申し上げます。

 世の中には、一日ふつかで3000を軽く突破してしまうブログもあることは私も存じておりますが、私の場合、数ではありません。アクセスの一つ一つを何よりありがたく押し頂いている毎日です。

 先日、ある人と話をしていて、ふと思ったことがそのまま口に出ました。

「僕がブログを続けているのは、正気を保つためです」

 これは、熊楠がなぜ手間のかかる標本作りをしていたか、その理由について言われることです。私の場合は、そこまで深刻でも高尚でもありませんが、籠って仕事をしがちな私にとって、このブログは、外に向かって開かれた小さな窓なのです。

 今後もぼちぼちやって行きたいと思っておりますので、なにとぞよろしくお願いします。

と、ここまで書いた時、K田君が入ってきた。喜びを分かち合おうとすると、彼曰く、

「3000のうち、1000はボクです」

くそー、早くK田から自立しなければ!


 
ある大学教員の日常茶飯

坊さんも戦場は怖い

2008年09月25日
  先日、南方熊楠顕彰館では、T村さんたちが、いろいろな知識をやさしく授けてくれた。
 その中の一つに、次のようなものがある。

 熊楠は、辻清吉という人物に宛てた大正15年の手紙の中に、次のようなことを書いている(『熊楠研究』第7号, p.187)。

 日露戦争の時、今は故人となったある有名な禅僧が軍を慰問した。ところが彼は大砲の音や砲弾の落下におびえて逃げ回り、ついに戦場に行かなかった。これは志賀重昂が実見した話である。ところが、その僧が書いた戦場体験記を読むと、弾丸砲弾が乱下する中を平気で歩き回り、まるで地獄の地蔵菩薩のように、負傷兵を慰問したようなことを書いている。その文章は面白いが、志賀の話を読んで、私は、その僧の臆病は生まれつきだから仕方がないと思った。


 これを読んで、私は、ある人物の名前が浮かび、それをT村さんにも話したが、昨日になって志賀の書いたものを見てみると、志賀とその僧はともに遼東半島の戦場を訪れてはいるものの、その期間はずれていて、二人が戦場で直接顔を合わせる機会はなかったことが分かった。
 してみると、別人か? それとも志賀の談も、実は伝聞なのか?伝聞であるならば、熊楠の言っていることはそのまた書きなおしということになる。
 

 悟りすました高僧が砲声におびえて逃げ回った、という話は俗耳に入りやすいし、私なぞ、人間らしくてかえって好ましいとすら思えるが、こういう話の取扱いはくれぐれも注意が必要だ。

 それにしても、この坊さんが誰か、ご存じの方いませんか?

 
研究ノート

気合いだ!

2008年09月22日
 浜口京子が北京で銅メダルを取ったのは、私の中でもランキングがかなり高い。同じ銅でもアテネでは、あれ、負けちゃったの?という感じだったが、今回はあの喜びの爆発にこっちまで嬉しくなった。確か「銅は勝者」というような言葉があったと思うが、同感である。

 昨夜、その浜口がテレビのトーク番組に出ていて、おもしろかった。ネズミなんとかという芸人さんが結婚したいくらい好き、というのはご愛嬌だが、父親のアニマル浜口が、毎日30分、家の中で「ワッハッハァ、ワッハッハァ」と笑い続けるというのにはちょっと驚いた。
 
いまどき、オヤジにそんなことができる家庭が、悪い家庭であろうはずがない。

ところでアニマル浜口といえば、ラッシャー木村、ラッシャー木村といえば寺西勇である。猪木との1:3の変則マッチの時には、あの国際プロの金網デスマッチの鬼がここまで身を落としてと、ひそかに同情の涙を拭いたものだが、そこはそれ、彼らもプロ。この道で生きていくためには何でもしなければならない。3人のうちでも、浜口は、火の玉ボーイという感じの生きのいいファイトで人気があったと思う。

あっというまに夏休みも終わり、今日から後期の始まりである。
こっちはこっちで、気合いだ!気合いだ!気合いだ!!





 
ある大学教員の日常茶飯

田辺出張

2008年09月19日
 来年の特別企画展の企画会議のために田辺の南方熊楠顕彰館に出張した。
 顕彰館と地元の方々がとても積極的で、いい展示会になる感触を持った。

 終わって、熊楠旧邸に回り、熊楠の親族のH本さんに会う。

― 田辺は、熊楠には居やすい場所だったんでしょうね。
― ええ、田辺には外から来た人を歓迎する雰囲気がありますから。それに他人に批判されるのが嫌いな人でしたから。
― 僕はこの辺りの町並みに昭和30年代を感じるんです。
― 私たちは子供の頃、よくこの庭で遊びました。ですからここには郷愁があります。
― 郷愁といえば、僕の頭の中にも浮かぶ光景があるんです。山形の町場で、これくらいの庭が畑になっていて…今そこに行ってもそれが残っているわけじゃないので、帰りたくても帰れないですが。

いつもの通り、縁側に腰を下ろして庭をながめならが、とりとめのない話を短くしただけだが、何となく心癒される思いがした。

 夜、T村さん、I 崎さん、Y田さんと田辺駅の近くで夕食をとり、楽しいひとときを過ごした。

田辺の今朝の表情
田辺の今朝の表情

扇ヶ浜
台風の接近で扇ヶ浜付近の波も荒い。彼方に天神崎が見える。



 
研究ノート

中秋の名月

2008年09月14日
中秋おぼろ月
 中秋のおぼろ月
ススキ
月光ならぬストロボの光でススキの穂が光る。


かさ国のだんご
神田君が買ってきた「かさ国」の月見だんごを頂いて、月見の宴を終わる。
ある大学教員の日常茶飯

B君への手紙

2008年09月13日
B君、お便りありがとうございました。同封の泰国日本人会発行の『クルンテープ』も興味深く読ませてもらいました。

君が、バンコクの日本人納骨堂に赴任することを告げにきたのは2月の下旬だったですね。あれから半年経ったわけですが、その間に剃髪式、得度式をすませ、上座部の沙弥として修行しながら、日本人納骨堂の新任堂守の仕事を元気にこなしている様子が分かり、とても嬉しく思っています。

タイの僧院で上座部の僧侶として生活しながら、一方では日本の真言僧として納骨堂の管理や法要を行なうというのは、考えてみれば、とても興味深いことです。

君も知ってのとおり、2500年前、インドに発祥した仏教は、長い年月の間にアジア各地に無数に枝分かれしながら広まってゆきました。その中の大きな流れである大乗仏教と上座部仏教とが、君の中で日々出会っているのです。そこに文化史的な意義を感じます。

夏安居が終わったら、北部タイに足を向けたいとか。タイという国のさまざまな姿を自分の目で見ることは、かけがえのない経験になるでしょう。それから3年の任期のうちにはタイ語をきっとマスターしてください。できればパーリ語もやってみるようにお勧めします。

最近タイでは政情不安が伝えられていますが、君のところは大丈夫ですか。タイでは僧侶は大事にされると思いますが、くれぐれも用心してください。また慣れない暑い国のことですから、決して無理をせず、健康に十二分に注意してください。

それではお元気で。気が向いたら、また連絡してください。   吉祥あれ。 



 


高野山大学の力

東京出張

2008年09月11日
 どうしても出なければならない会議があって東京に出張した。会議は今日の午前中。やむをえず前泊することにした。昨日の夕方東京に着いて、その足で、G大の友人Dを訪ねる。
 
 Dに只券をもらってまず狩野芳崖展を観た。そのあと、Dの部屋でちょっと話してから、二人で池端に出て飲む。話がおもしろくて時の経つのを忘れた。

 フェノロサ、スペンサー、有賀長雄、赤松連城、大内青巒、大道長安、伊東忠太、それから南方熊楠。 

 Dと私は大学を出てからおよそ違う道を歩いてきたはずだったが、この歳になって、なぜが関心領域や研究対象が近付いているのは愉快だった。

 上野で別れ、浅草のホテルに11時過ぎに着いて寝る。ホテルは仲見世からちょっと入ったところ。今朝は9時過ぎに出て、まず浅草寺の観音様にお参りした。
 会議は2時間ほどで滞りなく終わり、国会図書館で調べものをしたあと帰途についた。
伊東忠太のガーゴイル
  都内某大学に棲む伊東忠太の造った怪物たち
ある大学教員の日常茶飯

一日が行く

2008年09月07日
本日未熟者
           ♪ あがいてえ、もがいてえ、一日があ行くう♪


あいにく本日
    ワタクシ、ホンジツ、みじゅくものォ!


ある大学教員の日常茶飯

益田池碑の台石

2008年09月06日
 ついでだから、これも紹介しておこう。
 熊楠が法龍に語るには、825年に大和の益田池の完成を記念して建てられた記念碑は、今は失われたが、その台砆は残っていて、それがなんと、高さ二丈五尺余、前面の広さ三丈二尺、側面の広さ一丈二尺余もあるという。台石がこんな大きさであることから推定すれば、碑石そのものは少なくとも十丈はあったと考えなければならない。十丈は、ニューヨークの自由の女神よりも高い、と(私曰、実は自由の女神の方がよほど高い。残念ながら)。


 この記録は『工芸志料』にあるというが自分は未見である、と熊楠はいう。そこで調べてみると、黒川真頼の『増補訂正 工芸志料』巻2に確かにそういう記録がある。

 益田池址には私も行ったことがあるが、はて、そんな巨石があっただろうか、と考えてみると、ああ、何だ、益田岩船のことか、と思いあたる。
 益田岩船はゾロアスター教の拝火壇だ、と喝破(?)したのは松本清張だった。学術研究の先端ではどう考えられているか、私には分からないが、満々と水をたたえた貯水池に影を落として巨大な石碑が立っている光景も、想像すれば、どうしてなかなかシュールではないか。
 益田池碑とくれば、弘法大師の「大和州益田池碑銘並序」1巻である。
 これは原物は現存しないが、平安中期の模写が残っていて、重文に指定されている。さまざまな書体で縦横無尽に書かれた、ちょっと類例のないような作品だ。


 この碑の建立の実態がどうであったかは、ひとまずおいて、上述のような巨大な石碑に弘法大師の筆になるこの銘文が刻みつけられていたと想像するだけで、私のイメージの中の古代がちょっと変わるように感じられる。
 ついでながら、この「大和州益田池碑銘並序」1巻も今霊宝館に展示中だから、興味のある人は見にゆこう。
  
 

 

 

 
研究ノート
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