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「清洲会議」

2014年01月22日
映画がおもしろかったので、三谷幸喜の原作本(幻冬舎文庫)で復習しておいた。普通はここまではしないのだが、ラストシーンが気になったからだ。
秀吉と寧が土下座して、馬上の勝家らを見送るシーンである。そこには勝家与力の利家も当然いるし、映画では滝川一益も確かいたと思う。この時、役所広司の勝家、一瞬、片頬だけ笑うと、すぐに厳しい顔に戻り、「大儀である」と言い残して去ってゆく。
これはこれとして理解できる。原作本も同じである。ただこれだと勝家が秀吉にやられっぱなしということになり、少々可哀想ではないか。そこで別のラストシーンを考えてみた。

勝家と一益に馬上で高笑いさせる。
地の底から湧いてくるような不気味な哄笑である。
思えば、会議は勝家にとっては無理な「戦」だった。秀吉の術中にはまったのも仕方がないことだ(歴史的事実というよりこの物語の設定として)。そういう無理をして滑稽な役回りを演じさせられた自分も含めて、今の状況を笑い飛ばすのである。この哄笑には、本物の戦では負けない、今度会ったら一泡吹かせてくれる、という気概も含まれている。それが一瞬、秀吉をぎくりとさせる。

こんなんでどうでしょうか。

歴史は、それから一年も経たないうちに、秀吉によって、勝家が御市の方と共に北庄で亡ぼされてしまうことを教えてくれている。非情なものである。滅びゆく者たちに最後の栄光を。ちょっと甘いかな。

読書ノート

吉村昭著『彰義隊』

2012年10月10日
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*「新居」の窓からの眺め

昨日夜明け前に目が覚めた。近頃ではこういうことが珍しくないが、ここ数日酷くなった。なかなか眠りにもどれないので、枕元に置いている読みさしの本の続きを読んだ。

 吉村昭著『彰義隊』新潮文庫

これはこの間、山形から帰る際に電車の中で読むために買った本である。

大分以前のこと、同じ作家の『長英逃亡』の新聞広告を見て、高野長英が逃げるだけで小説になるのだろうか、と疑問に思った記憶がある。数年後、実際に読んでみて心の底から納得した。逃げるだけで立派な小説になるのである。むろんそこには、逃亡者を執拗に追跡してゆく作家の目がある。

『彰義隊』も『長英逃亡』同様、「逃げる話」である。逃げるのは上野寛永寺の貫主だった輪王寺宮(のちの北白川宮能久親王)である。宮は、明治天皇の叔父であるにもかかわらず、戊辰戦争では皇族でただ一人朝敵になってしまう。それは上野戦争に巻き込まれ、東北に逃れて奥羽越列藩同盟の盟主に推戴された結果であるが、そのそもそものきっかけは、徳川慶喜の助命嘆願に赴いた宮に対する東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王の態度が非礼で、宮と宮の側近たちを憤慨させてしまったことにあるらしい。

私が一番面白かったのは、上野が落ちた後、宮の一行がどうやって官軍の追及を逃れ、品川沖の榎本武揚の艦隊まで逃げおおせたかというところである。この辺りのディテールの確かさには舌を巻く。多分普通の学者であれば、見逃すか、見てもここまでは想像力が及ばないのではないかと思われる。この作家の執拗なまでの事実の探求が、思いもよらない新しい光景を開くのは、例えば『生麦事件』の場合と同じである。

なお、宮は、仙台藩が降伏した後、自らも降伏し、その後プロシア留学を許されて軍人としての道を歩んだ。明治28年、日清戦争によって割譲された台湾に近衛師団を率いて出征。マラリアのため現地で薨去している。






読書ノート

宮本輝『錦繍』(新潮文庫)

2012年03月06日
「前略 蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした」

蔵王もドッコ沼もゴンドラ・リフトも山形市に生まれた者にはお馴染みのものだから、それだけでもこの作品を読む十分な理由になるはずなのに、私はとても長い間、書店で見かけるたびに、冒頭のこの一文を読むと本を閉じ、そっと書棚に戻すことを繰り返してきた。それがなぜかは自分でもよく分からない。どうせいつかは読むのだから、今はまだいい、といった心境だったかもしれない。

それが、山形駅前の本屋で何のためらいもなく買ってしまったのは、その時の私が、あることで非常なストレスを感じていたからだと思う。この気分を大阪まで引きずってゆくのは堪らない。

山形新幹線の座席に座ってすぐに読み始め、読み終わったのは東海道新幹線の車中だった。

冒頭から最後の一行まで、ロマネスクの鐘が鳴りやまない。読み終わってすぐに二回目が読みたくなった。東北から戻って数日の間、本書の内容を反芻するうちに何かが分かったような気がした。この感覚をだいじにして、既読のものを含めて宮本作品を読んでみたい。例えば、『星宿海への道』は、数年前に読んで手が込みすぎていると感じたが、今なら多分違う読み方ができるだろう。



読書ノート

南方熊楠大事典が届く

2012年01月13日
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朝、事務に行ったらこれが届いていた。

「これは罪作りな本だよ。一度読みだしたらなかなかやめられない」とはC本先生の言であるが、まさにその通りで、時間が経つのを忘れる面白さがある。おかげで昼過ぎの会議に遅れそうになった。

800ページ近い大冊だが、大事典と銘打つ以上、これぐらいあるのは当然で、むしろ項目を絞り込んで何とかこれだけに抑えたという感じである。私なら、たとえば、人名録には「中村錠太郎」を入れたいところだが、そういうのをいちいち取り込んでいると、今でさえ「枕のような」と言われる本がほとんど立方体になってしまうだろう。それはそれで面白いのだが・・・

何項目か読んでみて、感心することがとても多かったが、人によって随分観点が違うものだ、とも思わせられた。この出版を機に研究者間の情報交換がさらに進むことを期待したい。
読書ノート

岡本隆司『李鴻章―東アジアの近代』

2011年12月29日
まだ仕事に区切りがつかないので厳寒の御山に留まっている。仕事というのは、来年7月にソウルで開かれる学会での発表題目と要旨である。一応書き終わったのだが、これじゃいかん、まるで進歩がない、と自分でダメ出しして、もう半日やることにした。

こんな時なんだが、読み上げた本があるので、忘れないうちに感想でも書いておこう。

岡本隆司『李鴻章―東アジアの近代』岩波新書、岩波書店、2011年

李鴻章(1823-1901)は清朝末期の政治家で、「東洋のビスマルク」とも呼ばれた。状況は彼にビスマルクほどの活躍は許さなかったが、やはり並外れた大政治家だったというのが本書を読み終えての感想である。

本書の中で私は、日本との関係を述べたところがやはり一番面白かった。李鴻章は日本の台頭を警戒し、よく研究していた。彼は、日本による台湾出兵(1874)と琉球処分(1879)を通して日本を第一の仮想敵国とみなすようになる。しかし彼我の力を冷静に計る目を持っていて、日本との戦いはできるかぎり避けようとした。が、日清戦争では北洋大臣・直隷総督として矢面に立ち、敗れて、清朝にとっては過酷な下関条約に調印を余儀なくされる。

重要なのはここからで、李鴻章は、日清戦争の敗北を挽回するために日本との問題にロシアを引き込む工作をする。このことがその後の東アジアの命運を左右したと著者は言う。李鴻章は三国干渉を実現させ、さらに露清秘密同盟を結んで、東三省にロシアの勢力を引き入れた。そしてそれが「日露戦争・満州事変の出発点をなし、ひいては日中戦争をひきおこす原因となった」。
こういう流れの中で中国が被った惨害は計り知れないものがあるから、その引き金を引いた彼の責任は重大と言わなければならない。ただ著者は、当時の状況では、誰がやっても、ほかの選択肢はなかったのだと言う。そして、李鴻章の失策を言うのであれば、「日清開戦を導いた朝鮮への出兵が、(彼の)生涯最大の失策であり、そうならざるをえなかった、一貫した日本敵視こそ、そもそも失策というべきであろう」と述べる。

ここまで読めば、李鴻章という一個人の意思と行動が、実は日本の近代の歩みをも大きく左右したということが理解される。そして1945年の敗戦から時間をさかのぼってゆけば、別の未来につながるさまざまな岐路があったかもしれない、という思いに誘われる。

本書を読み進めるうちに「団練」「教案」「督撫重権」などの用語が自然に身についてゆく。何気ないが、これはかなりの工夫だと思う。

ところで、李鴻章は太平天国の乱の血と硝煙の中で恩師・曽国藩の幕僚として頭角を現した。後に金陵刻経処を作って清末に仏教復興運動を展開した楊文会(1837-1911)も曽国藩・李鴻章の幕僚であった。彼は出身が安徽省で、李鴻章と同じである。その辺の関係がどうなっていたかは、今度陳継東さんに会ったら聞いてみよう。

読書ノート
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