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パンとペン

2011年02月07日
黒岩比佐子さんの『パンとペン―社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い―』をようやく読みあげた。時間がかかったのは、枕元に置いて、毎晩寝る前に少しずつ愛でるように読んだからである。

この本は、大逆事件後に訪れた社会主義の冬の時代に、「売文社」という文章よろず引き受け業を営みながら雌伏の時を過ごす堺とその仲間たちの静かな闘いを描いている。困難な時代だからこそ、ユーモアを失わずに明るく生きる(心の中にどんな木枯らしが吹いていても)ことの大切さを教えられる、そういう本である。

こういうノンフィクションは読めば知識が増えることも確かだが、もっと大切なことは作家が主人公にどう向き合っているか、その姿勢を学ぶことだと思う。


今日はなぜか日が落ちるに従って、気持ちがいっぱいいっぱいになってしまった。
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鳥羽伏見の戦い

2010年06月03日
最近は寝しなに野口武彦著『鳥羽伏見の戦い』(中公文庫)を読んでいる。

睡眠導入剤代わりに読むものだから、妙に肩が凝るものや、専門に近くて読んでいるうちに目が冴えてくるものではだめだ。その点、これは効果抜群の本である。といって退屈なわけではない。いや、その逆で、なかなかおもしろい。

鳥羽伏見の戦いといえば、子供の頃に仕入れた知識で、刀槍で武装した旧幕府軍が、薩長軍の新式の銃と大砲の前に敗れ去った戦いというイメージからなかなか抜け出せなかったが、この本のお陰でそれをかなり訂正できた。

旧幕府軍のフランス伝習兵が高性能のシャスポー銃を装備していたかどうかについては論争があるらしく、著者はその論証に力を注いでいるが、私にとって重要なのは、薩長軍の圧勝に終わったこの戦いも、やってみるまではどっちに転ぶか分からなかったというスリリングな展開である。

もしも旧幕府軍総司令官の徳川慶喜に陣頭指揮を執るほどの勇気があったならば、もしも旧幕府軍が大軍を利用して多方面から同時に京をめざしていたならば、そしてもしも前線の司令官が最初から一戦に及ぶことを覚悟し、いつでも発砲できるように銃に弾を込める命令さえしていたならば、戦局は大分変っていたに違いない。歴史はifの連続だという著者のことばは納得できるものである。

つまり「下手をすれば」旧幕府軍が勝っていたかもしれないのである。

私はそれで一向に構わないのだが、もしもそうなったら、戊辰戦争の規模は何倍にもなって日本中が火の海になり、英仏の介入さえ許していたかもしれないから、結果はこれでよかったのかもしれない。


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『高丘親王航海記』

2010年04月27日
今日の高野山は午後から荒れ模様で小さな嵐のようだった。おかげで本山前の枝垂れ桜も大分花を散らしてしまった。
この天候のせいでもあるまいが、今日は院生たちを怒ってばかりいた。「これ、もう少し厳密に訳さないと」「あんまり余計なことやってると論文書けないよ」「こりゃタイトルが○○っぽいな」

高丘
先日、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』に触れた。今度その初版を手に入れたので、改めて紹介したい。全集本でなく、文藝春秋刊の初版にこだわったのは、1987年に出たばかりの本を書店で見た印象がまだ残っていたからである。

「そのとき、和上のうしろの壇の上で、孔雀明王を背中にのせている三尺ばかりの孔雀の像が、一瞬、その蛇紋のある長い首をぴくりとうごかし、その左右にひろげた羽をぶるぶると震わせたような気がして、親王はわが目を疑った。しかもよく見れば、その驕慢な鳥の顔が女の顔、もっとはっきりいえば藤原薬子の顔そっくりに見えて、はっとした。死んだ薬子はどうも鳥に縁があるようで、これまでにも何度か鳥のすがたをして親王の夢にあらわれている。(中略)
 親王がじっと見ているのに気がついたらしく、孔雀はふたたび首をかしげると、ごく低い声で『訶訶訶訶訶……』と鳴きはじめた」(pp.126-127)

この後、高丘親王は、孔雀明王と入れ替わって、薬子である孔雀の背に乗り、和上、つまり弘法大師に見送られて、高野山の上空高く舞い上がる。

以上は、親王が見た夢である。

著者の念頭には、高野山霊宝館にある著名な快慶作の孔雀明王像があったかもしれない。

それにしても印象的なシーンである。念頭に置かなければならないことは、この時親王が数え年67歳の老人であるということである。彼は、幼年期に父平城天皇の愛人であった藤原薬子(ふじわらのくすこ)と過ごした思い出を忘れかねている。否むしろ、年を重ね、死が身近に感じられるようになるにつれて(天竺行そのものが帰るあてのない死出の旅路といってよい)、50年以上前に乱の中で自ら毒をあおいで果てた薬子への思いがますます募るのを感じている。

以前、弘法大師を主人公にしたフィクションを取り上げて、「弘法大師空海論を読む」(『高野山大学選書第5巻 現代に生きる空海』)という文章を書いた時、ついでにこれも入れたかったのであるが、紙幅の制約でできなかった。

 
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高山寺に本を届ける

2010年03月20日
JR京都駅で神田君と落ちあい、バスで栂ノ尾に向かった。高山寺にできたての『高山寺蔵 南方熊楠書翰』を届けるためだ。
この前同寺を訪れたのは2008年7月のこと。出版企画を説明し許可をもらうのが目的だった。それから数えても1年半以上。神田君が同寺に法龍の墓参りに行ったのがきっかけで、高山寺資料が発見されてから、すでに5年半もの歳月が流れている。

庫裏で山主の小川師と副住職の田村師にご挨拶、ご報告した後、石水院の縁側から眺めた春の景色がすばらしかった。

快晴。

夕方、梅田第二ビルの大学コンソーシアムで開かれた熊楠関西に2年ぶりで出席。田辺で企画展を準備中の田村さんが、9時ぎりぎりになって駆けつけた。そのあと、田村さん、和歌山市博のT内先生、神田君と、ビル地下の居酒屋で夕食替わりに一杯やりながら、編集中、質問攻めで散々悩ませたことなどを謝する。

これで本当の区切りが付いた。


今朝、ブログ拍手のコメント欄を見たら、仙台のパンダからとんでもない連絡が入っている。思わず頭を抱える。
次、次だよ!
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高山寺蔵 南方熊楠書翰 土宜法龍宛1893-1922

2010年03月17日
高山寺蔵 南方熊楠書翰
奥山直司・雲藤等・神田英昭編『高山寺蔵 南方熊楠書翰 土宜法龍宛1893-1922』藤原書店
8800円

お昼に見本が二部届いた。やっとこの日が来てくれたという感じ。

2004年10月、京都の栂尾山高山寺から熊楠が土宜法龍に宛てた手紙が大量に発見されて大きな話題になった。この発見がことさら注目されたのは、熊楠は、彼の尊敬するライプニッツらの例にならって、書翰を自己の思想の「あずけどころ」としていた節があり、中でも法龍宛書翰は、その思想性の高さから、第一級の価値を与えられてきたからである。
 熊楠の思想の解明には、法龍宛書翰の分析が欠かせない。のみならず法龍が熊楠に送った書翰も含めて、二人の手紙による交流の軌跡をトータルに把握する必要がある。これが熊楠の思想に関心を持つ者の共通認識であると言ってよい。高山寺新資料発見のニュースが大きな驚きと期待感を持って迎えられたのはこのような理由による。
 その出現から早くも5年半。その間、多くの研究者が書翰の翻刻に携わり、熊楠の読みにくい文字、難解な文章と格闘し続けてきた。その膨大な努力の蓄積が今、最後にバトンを渡された私たちの手で、ついに形になった。
 この本に収録された若き日の熊楠の手紙は、生き生きとした言葉に満ちている。本書の読者には、こうした熊楠の語りと戯れ、自由に読み解いてもらいたい。そしてそれぞれ好きなようにこの天才的人物を論じてもらいたい。それがたまたま編者の一人となったものの願いである。


藤原書店の刈屋琢さんがとてもいい本に仕上げてくれた。一緒に仕事ができたことに感謝。

深い満足感に浸りつつ、次に向かうことにする。



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