FC2ブログ
03月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫05月

東ヒマラヤ 都市なき豊かさの文明

2020年04月01日
IMG_20200401_0003_convert_20200401135532.jpg

安藤和雄編著『東ヒマラヤ 都市なき豊かさの文明』(京都大学学術出版会)が届いた。
ずっしりしたボリュームのある本に仕上がっている。私は第9章「モンユルの仏教―チベット仏教圏の中のアルナーチャル・プラデーシュ州西部」と「ブータンの仏教」というコラムを執筆させてもらった。アルナーチャル・プラデーシュには2回行かせてもらった。今になってみれば、楽しい思い出ばかりである。
この本がめでたく完成したのは、何といっても、ぎりぎりまで追い詰められながら、驚異的な粘りを発揮した編者の力が大きい。まずはおめでとうございます、と言っておこう。

新型コロナで世間全体が浮足立っている感があるが、だからこそ我々は本務に専心しなければならない。
研究ノート | トラックバック(0)

一体ありました

2020年03月24日
3月24日(火)
前回探索の広告を出した仏像の一体のありかが分かりました。誰かに教えてもらったのではなく、別の目的で古い図録のページをめくっていたら、そこに写真があることに気づいたのでした。ブッダガヤー出土とされる石造釈迦牟尼仏坐像の方です。所蔵先は東京国立博物館。そのうち見せてもらいに行くか。

図録は1993年に堺市博物館で開かれた秋季特別展のものである。この展覧会を私はA路さんご夫妻と一緒に観た。その前日には宇治の萬福寺を初めて訪ね、文華殿でT和尚さんの話を聞き、それから堺に行ってA路さん宅に泊めてもらった。何とも懐かしい思い出である。


研究ノート | トラックバック(0)

仏像、探しています

2020年03月20日
慧海が主宰した在家仏教修行団の本尊は、光雲が昭和3年にインド産の白檀木を彫った釈迦牟尼仏立像であった。白檀木の原形を活かして、施無畏与願印の釈迦牟尼仏が山窟から姿を現したところを写した「出山釈迦像」である。ところがこのご本尊、今はどこにあるか分からない。

慧海は、第二回旅行中にカルカッタのインド博物館のバネルジーという人物から、ブッダガヤー出土の石仏を贈呈された。菩提樹下で降魔印を結ぶ坐像である。慧海はそれを日本に持ち帰り、還暦記念にブロンズにして頒布する計画を立てた。これはまた光雲の助力によって実現したともいわれるが、石仏はもとよりブロンズ像も残っていない。ブロンズ像は戦時中に供出された可能性もあるが、どこかに一体位残っていてもよさそうなものである。

お心当たりの方、ご一報願います。
研究ノート | コメント(0) | トラックバック(0)

コレラ1890

2020年03月01日
1890年(明治23)9月に紀伊大島近くで起きたエルトゥールル号の遭難の遠因はコレラの流行にあった。船内にコレラが蔓延したため、横須賀の長浦消毒所(検疫所)に2ヶ月近く船ごと隔離され、そのためイスタンブルに向けての出航が台風シーズンにかかってしまったのである。
当時の日本は、港町を中心にコレラの流行に悩まされていた。エルトゥールル号事件の生存者69人を本国に送致するために出動した「比叡」と「金剛」が、神戸で生存者を分乗させた後、午前2時に出航して伊予の三津浜を目指したのも、コレラ禍を避けるためであったらしい。ところが三津浜でもコレラ発生の情報があったらしく、両艦は早々に長崎に回航している。船という閉ざされた空間にとって疫病が大敵であることは、いやというほど分かっていたのである。

ちなみに、エルトゥールル号事件の犠牲者は587人とされることがある。この数字は事件発生直後から公文書に表れるが、確定的なものとは言えない。東洋大学の三沢先生は、消毒所の記録などから、海難による死亡者を約500人と推定しており、私もこれに従っている。

研究ノート | トラックバック(0)

慧海記念館にプレート設置を

2019年10月15日
*「コンクリートから人へ」と言ったのは、いったい誰だったか。

10月15日(火)
昨日、午後2時より堺の「利晶の杜(りしょうのもり)」で「慧海記念館にプレートを設置」のプロジェクトの発表会があった。
プログラムは次の通り:
記録映画「秘境ヒマラヤ」部分上映。
高山龍三「ヒマラヤの奥地に河口慧海の記念碑を」
大西信司「「プレート設置プロジェクト」経過報告」
同 「マルファの子供達に支援の手を」
稲葉香「慧海の足跡をドルポに追って」

充実したよい会であった。メインは、ネパールのムスタン地方の村マルパ(マルファ)にある旧アダム・ナリン邸の玄関に慧海を顕彰するプレートを設置すべく計画を進めている大西氏の報告であった。この屋敷は、慧海が1900年の7月にトルボからチベットに潜入する前に滞在して経典を読んでいた場所である。今のオーナーが奇特にも自分で入り口に「河口慧海の家」という看板を設置している。そこに改めて、日本語、英語、ネパール語の説明文と慧海の肖像の石のプレートを設置して、慧海の事績を顕彰しようというのがこのプロジェクトである。プレートはもう完成していて、来月現地でこけら落としが行われる。

ムスタン、トルボ、慧海の越境ルートといえば、私のひとつの原点である。よい刺激を受けた。慧海研究はまだまだ続く。


研究ノート | トラックバック(0)
 | HOME | Next »