05月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫07月

河口慧海の手紙ー肥下徳十郎宛

2018年03月10日

3月10日(土)

河口慧海著作選集を出し続けている慧文社から、『河口慧海著述拾遺 補遺』が出版された。これに私は、高山龍三先生と共に編者として名を連ねている。慧海関係文献の収集は高山先生のライフワークであり、この出版もその成果のひとつである。「拾遺の補遺」というのにまず驚くが、つまりは落ち穂拾いをしても、なお拾うものがあるということで、最近の高山先生の発表を見ても、今なお続々発見があるようだ。

私がその共編者になったのは、ひとえに肥下徳十郎(ひげ・とくじゅうろう)に関係する慧海の書簡と弔文あわせて15点が収載されていることによる。これらは、すでに四年前に『堺研究』36号に発表したものであるが、この度、高山先生からお誘いを受けたのを機に必要な修正を施すことができた。ただし、本書収載の他の論考に合わせて注は省いた。「解説」でそれを補おうとしたのだが、わかりにくさは残ってしまったようだ。


肥下家は、慧海の生家がある堺北旅籠町の大道筋(旧紀州街道)に店舗と住宅を構える素封家で、徳十郎(幼名駒次郎)は、東瓜破(うりわり)村の全田家から来た養子であった。徳十郎と慧海(定治郎)が出会ったのは、共に数え年15歳の時のことである。二人の若者の間に芽生えた友情は、1915年に徳十郎が没するまで35年間続くことになる。18年にわたる慧海の「チベット旅行時代」、徳十郎は、堺・大阪の後援者グループの中心的存在として、地元堺から物心両面で慧海を支え続けた。15点は、二人の関係を考える上では、これ以上ないほどの貴重資料である。「慧海さんはチベット旅行の費用をどう工面したのだろうか」こう思う人には是非読んでもらいたい。

研究ノート | トラックバック(0)

エルトゥールル号シンポジウム報告書

2018年02月27日

東洋大のM沢先生から、2015年にイスタンブルで開かれたシンポジウムの報告書が送られてきた。題して、

Uluslararası Ertuğrul'un İzinde Deniz Kuvvetleri ve Diplomasi Sempozyumu

この本に私は、

Kolombo'dan İstanbul'a Giden Hiei ve Kongo Gemilerine Refakat Eden İki Japon Budist Rahip

という論考を寄稿している。シンポジウムで発表したものだ。


同時に東洋大学アジア文化研究所発行の『オスマン帝国と日本 トルコ共和国首相府オスマン文書館所蔵文書に基づく両国関係』もいただいた。非常に参考になる。


DSC_0768_convert_20180227191838.jpg

*イスタンブルのコンスタンディヌーポリ総主教庁にある双頭の鷲の紋章。

もとは東ローマ帝国の紋章だった。


研究ノート | トラックバック(0)

景教碑

2017年01月11日

一昨年の9月にイスタンブルに行った折、ボスポラス海峡を船で渡って、アジア側のカドゥキョイ地区に案内され、レストランの中庭の葡萄棚の下で会食したことがある。カドゥキョイは古名をカルケドンといい、451年にカルケドン公会議が開かれた場所である。この会議でイエス・キリストの単性説が否定されるとともに、その20年前、同じアナトリア(小アジア)のエフェソスで開かれた公会議で下された、コンスタンティノープル大主教ネストリウスの教説に対する異端認定が確認された。かくしてネストリウス派は東方への布教に活路を求め、7世紀前半には唐の都長安に達した。この教派の中国における名称は景教である。


二つの公会議から1500年以上の歳月が流れた。


1911年9月、高野山奥之院に「大秦景教流行中国碑」のレプリカが建てられた。それはイギリスのゴルドン夫人(E. A. Gordon)の寄贈になるもので、夫人は、弘法大師は長安の大秦寺(キリスト教会)境内でこの碑を見たに違いないとの思いから、これを高野山に建立したのであった。夫人には、景教が古代日本に伝来したとの確信もあった。


原碑は、17世紀初めに西安郊外の金勝寺境内から出土し、そこに置かれていたものが、20世紀の初めに碑林(博物館)に移されて今日に至る。碑文を撰したのは大秦寺のペルシア僧アダム、中国名景浄である。この景浄が、長安における弘法大師の先生の一人であるインド人般若三蔵といっしょに『六波羅蜜経』を翻訳しようとして失敗した景浄と同一人物であるというのだから、話はややこしい、否おもしろい。






研究ノート | トラックバック(0)

河口慧海生誕150年 講演会

2016年12月19日
12月17日(土)
「河口慧海生誕150年 講演会」に参加するために、久しぶりで宇治の黄檗山万福寺に行った。11時過ぎに京阪黄檗駅に降り、まず宝蔵院で黄檗版の版木を見学した。その後、万福寺門前の店で茶そばと天ぷらのセットでお腹を満たしてから、万福寺の惣門を潜った。

___convert_20161218213948.jpg
*宝蔵院にある黄檗版版木の収蔵庫。

___convert_20161218211204.jpg
*大雄宝殿の手前には二本のヒマラヤ杉が立っている。大正6年に慧海の帰国と隠元禅師の大遠忌を記念して植樹されたもので、もとは月台上にあった。「ヒマラヤ杉は残った」の感慨がある。

しばらく境内を散策した後、1時前に文華殿に行くと、ぼちばち準備が進められていた。
文華殿の前には慧海の歌碑が立っている。平成25年に建立されたもので、私も計画段階からちょっとだけ関与したが、実物を見るのは初めてだった。こうやって、黄檗宗内で慧海が顕彰されるのはよいことだ。後年、黄檗宗から離脱するとはいえ、慧海という仏教者の出現には、黄檗宗の持つ文化力が大きな役割を果たしているのだから。

1時半から始まった講演会は、田中智誠和尚、高山龍三先生、稲葉香氏が順次話をして4時頃閉幕した。せっかくだから何か話をせよ、と命ぜられていたので、三人のお話の後で、短くしゃべらせてもらった。東大阪からKさん夫妻、堺市からNさんも見えた。会場は小さかったが、聴衆がよくて、なかなか盛り上がった。



研究ノート

感激の一日

2016年11月11日
11月3日木曜日文化の日
この日、さかい利晶の杜で、河口慧海生誕150周年記念「慧海と堺」展関連の講演会とパネルディスカッションの集いが開かれた。最近にない感激の日だった。
 
堺東から歩いて、11時過ぎに受付に行くと、高山先生がすでに来ておられた。まもなく、Yさん、Uさんご夫妻、Hさん、Kさんが揃った。今回の展覧会に所持されている慧海ゆかりの品を快くお貸しくださった人々である。

会は1時半から始まった。最初は私だったが、いつになく気合いが入りすぎて空回り気味であった。次に高山先生がお話になり、その後休憩を挟んで、ディスカッションとなったが、そのメインは何と言ってもビデオレターで参加された宮田恵美さんであった。これが見られただけでも会を開いた価値はあったと私には思われる。

会の後、堺市のご厚意で、懇親会が持たれた。松原市のN先生も加わられた。この席では、河口慧海の幼なじみで最大の支援者だった肥下徳十郎の孫が、徳十郎が没してから100年後に慧海の親族と並んで座り、同じく有力な支援者だった藤原萬蔵・等子夫妻の孫と慧海の弟の孫とが語りあうという状況が作り出された。縁の不思議さをつくづく感じさせられた一時であった。

この不思議を「演出」したのはあくまで堺市文化財課の人々であるが、私もいくらかお手伝いが出来たことを嬉しく思っている。
************
さて、今日から3日間、大阪でダライ・ラマ法王の法話と灌頂がある。その後、月曜日、火曜日と高野山だ。
研究ノート
 | HOME | Next »