FC2ブログ
07月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫09月

デルゲへ

2020年06月01日
能海は、ダルツェンド滞在中の明治32年5月29日に、知り合いのチベット人の案内で折多の温泉に出かけて2泊した。その宿で彼は、ラサから来たという「ラマ僧」から耳よりの話を聞いた。

「ここから本街道を北に折れて15、6日も進むとデゲー(デルゲ)という場所に着く。そこには大きな僧院があり、そこで刷っている甘珠爾(カンジュル)、丹珠爾(テンジュル)併せて300部余りが一千両ばかりで手に入る」

ざっとこんな話であった。能海は南條文雄への手紙の中に、デルゲの甘珠爾、丹珠爾、つまりデルゲ版チベット大蔵経について報告したが、運送費を計算に入れたのか、価格は2倍の2000両と書き、日本人の足を考慮したのか、デルゲまでの行程を20日と書いている。
翌年春、能海はデルゲ経由でチベットに入る計画を立てた。しかし、沿道の物騒と雇い人の違約によって、結局断念し、青海に向かう。だがそのルートからも入蔵はならず、重慶に引き返し、今度は雲南に道を取って3度目の挑戦をした末に、麗江で消息を絶つのである。

能海がもしも首尾よくデルゲに到達できていたら、有名なデルゲ・パルカンで経典が木版印刷されている様子を見て、狂喜したに違いない。そしてもしも彼がデルゲ版をたとえ一帙でも日本に送ることができたら、それは多田等観先生よりも20年以上早い我が国への請来となるところであった。

康定市(ダルツェンド)は、成都から飛行機で1時間、高速道路を使うと3時間あまりで行けるらしい。
一度は訪れてみたい場所である。
研究ノート | トラックバック(0)

頭が痛い

2020年05月21日
先週の水曜日、一晩中偏頭痛がしてよく眠ることができなかった。私にしては珍しいことである。朝になって大分ましになり、2時間目にZoomで授業をやって立ち直った。これもストレスが原因かと思っていたら、正面玄関ですれちがいざまにMさんが、「それ、腰です」。最近座りっぱなしのためか、腰は万全ではない。どうも同僚たちの多くがそうなっているらしい。

さて、さっき漸く能海寛の四川路進蔵行から解放されて気分は上々である。
20日締めと聞いていたので、今日原稿ができてから、S田さんに恐る恐る電話したら、「お待ちしています」。それなりに頑張った甲斐があったというものである。

大分前、島根県浜田市金城町波佐の金城歴史民俗資料館を初めて訪れて、保管展示してある能海寛関係資料を見て以来、私の頭にこびりついた疑問は、能海は入蔵行の途中で得たこうした資料をどのようにして故郷まで送ったのだろうか、ということであった。何しろ彼は雲南の奥地から帰ってくることができなかったのである。大量の資料と共に凱旋帰国した慧海とは、まったく違うのである。この疑問は、能海関係資料にも時代別にいろいろあるということを知ってからも、去ることはなかった。

それが今回大分すっきりした。能海がダルツェンドから送った荷物は確認できるだけで9個。そのほとんどが無事に届いたと私は考えている。おもしろいのは、能海が、故郷に送る分を京都の下珠数屋町通りの宿屋、池田屋(池武)にまず送ったことだ。なかには東本願寺の上海別院に留め置かれた荷物もあったが、それらは松林孝純が気をきかせて、池田屋に転送してくれたようである。

東本願寺に近いこの宿屋は能海の京都における定宿だった。ここに送っておくと、友人、知人が何かのついでに波佐の近くまでもっていってくれたり、郵便で送ってくれたりしたのだろう。それまでは池田屋がしっかり保管してくれたに違いない。そう思いながらみると、経典の一枚一枚がより貴重なものに思えてくる。そのうちにネット上で公開できるようにしたいものだ。
研究ノート | トラックバック(0)

能海寛の経典収集

2020年05月18日
5月18日(月)
今年は能海寛(のうみ・ゆたか)研究会発足25周年の記念の年で、7月には記念式典とシンポジウム、記念の論文集の出版が予定されていた。記念式典とシンポジウムはコロナ禍で中止と相成ったが、論文集の方は順調に進んでいるらしく、私にも原稿を出すようお達しが来た。その締め切りが20日なので、昨日も休日を返上して大学に出た。

科研とのかかわりで、私の興味は、能海が四川省西部、横断山脈山中のダルツェンド(康定)で、どうやって経典を収集したか、にあるが、一昨日ふと思った。要は金ではないか。
もっとも、彼の旅行資金は決して潤沢ではなかった。重慶からガイドに雇った游顕甫という漢人が、峨眉山に登ってよほど疲れたのか、二人いるポーターのひとりと一緒に、もうこれ以上はご一緒できませんと申し出たのを渡りに船とばかりに、険路をゆくのに邪魔な荷物を持たせて重慶に帰らせてしまったのも、要は旅費が心配だったかららしい。

しかし、肝心なところでは彼はケチらなかった。パタン(巴塘)まで同行した寺本婉雅(てらもと・えんが)が重慶に戻ると聞いて、大急ぎで経典を買い集めた。寺本に託して日本に送るためである。外国人が大枚はたいて経典を買い集めているという噂は、あっという間に広がったに違いない。ダルツェンド周辺どころか、カムのあちこちに噂が飛んで、遠くから経典を売りに来る人間もあったのではないかと想像される。日本人と同様、チベット人もお金の誘惑には弱いのである。

こうして集めた経典は結構な大荷物になった。それを寺本は、文句も言わずに(いや、多少は言ったかもしれないが)、日本まで運び、京都の南條文雄先生に無事手渡してくれたのであった。寺本というと、壮士然としたところがあまり好きになれずにいたが、このエピソードを知って見直す気になった。他人のためにどれだけ働けるかで、その人の価値は決まるのだ。

ところで、上に述べた峨眉県から送った荷物であるが、それには能海が成都で買った仏像などとともに、赤い房のついた中国帽や二足の草鞋も含まれていた。それらは、時間はかかったが能海の故郷の波佐村に届けられて、今は古いたたら場を利用して作られた浜田市金城町歴史民俗資料館で見ることができる。
能海自身は、雲南の茶馬古道を北上してチベットに入る途中、麗江の先で行方不明になってしまうのだが、彼が中国の奥地から送った品々は結構ちゃんと届いていて、この意欲溢れる青年僧の面影を120年後の今に伝えている。
研究ノート | トラックバック(0)

東ヒマラヤ 都市なき豊かさの文明

2020年04月01日
IMG_20200401_0003_convert_20200401135532.jpg

安藤和雄編著『東ヒマラヤ 都市なき豊かさの文明』(京都大学学術出版会)が届いた。
ずっしりしたボリュームのある本に仕上がっている。私は第9章「モンユルの仏教―チベット仏教圏の中のアルナーチャル・プラデーシュ州西部」と「ブータンの仏教」というコラムを執筆させてもらった。アルナーチャル・プラデーシュには2回行かせてもらった。今になってみれば、楽しい思い出ばかりである。
この本がめでたく完成したのは、何といっても、ぎりぎりまで追い詰められながら、驚異的な粘りを発揮した編者の力が大きい。まずはおめでとうございます、と言っておこう。

新型コロナで世間全体が浮足立っている感があるが、だからこそ我々は本務に専心しなければならない。
研究ノート | トラックバック(0)

一体ありました

2020年03月24日
3月24日(火)
前回探索の広告を出した仏像の一体のありかが分かりました。誰かに教えてもらったのではなく、別の目的で古い図録のページをめくっていたら、そこに写真があることに気づいたのでした。ブッダガヤー出土とされる石造釈迦牟尼仏坐像の方です。所蔵先は東京国立博物館。そのうち見せてもらいに行くか。

図録は1993年に堺市博物館で開かれた秋季特別展のものである。この展覧会を私はA路さんご夫妻と一緒に観た。その前日には宇治の萬福寺を初めて訪ね、文華殿でT和尚さんの話を聞き、それから堺に行ってA路さん宅に泊めてもらった。何とも懐かしい思い出である。


研究ノート | トラックバック(0)
 | HOME | Next »