FC2ブログ
05月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫07月

仏像、探しています

2020年03月20日
慧海が主宰した在家仏教修行団の本尊は、光雲が昭和3年にインド産の白檀木を彫った釈迦牟尼仏立像であった。白檀木の原形を活かして、施無畏与願印の釈迦牟尼仏が山窟から姿を現したところを写した「出山釈迦像」である。ところがこのご本尊、今はどこにあるか分からない。

慧海は、第二回旅行中にカルカッタのインド博物館のバネルジーという人物から、ブッダガヤー出土の石仏を贈呈された。菩提樹下で降魔印を結ぶ坐像である。慧海はそれを日本に持ち帰り、還暦記念にブロンズにして頒布する計画を立てた。これはまた光雲の助力によって実現したともいわれるが、石仏はもとよりブロンズ像も残っていない。ブロンズ像は戦時中に供出された可能性もあるが、どこかに一体位残っていてもよさそうなものである。

お心当たりの方、ご一報願います。
研究ノート | コメント(0) | トラックバック(0)

コレラ1890

2020年03月01日
1890年(明治23)9月に紀伊大島近くで起きたエルトゥールル号の遭難の遠因はコレラの流行にあった。船内にコレラが蔓延したため、横須賀の長浦消毒所(検疫所)に2ヶ月近く船ごと隔離され、そのためイスタンブルに向けての出航が台風シーズンにかかってしまったのである。
当時の日本は、港町を中心にコレラの流行に悩まされていた。エルトゥールル号事件の生存者69人を本国に送致するために出動した「比叡」と「金剛」が、神戸で生存者を分乗させた後、午前2時に出航して伊予の三津浜を目指したのも、コレラ禍を避けるためであったらしい。ところが三津浜でもコレラ発生の情報があったらしく、両艦は早々に長崎に回航している。船という閉ざされた空間にとって疫病が大敵であることは、いやというほど分かっていたのである。

ちなみに、エルトゥールル号事件の犠牲者は587人とされることがある。この数字は事件発生直後から公文書に表れるが、確定的なものとは言えない。東洋大学の三沢先生は、消毒所の記録などから、海難による死亡者を約500人と推定しており、私もこれに従っている。

研究ノート | トラックバック(0)

慧海記念館にプレート設置を

2019年10月15日
*「コンクリートから人へ」と言ったのは、いったい誰だったか。

10月15日(火)
昨日、午後2時より堺の「利晶の杜(りしょうのもり)」で「慧海記念館にプレートを設置」のプロジェクトの発表会があった。
プログラムは次の通り:
記録映画「秘境ヒマラヤ」部分上映。
高山龍三「ヒマラヤの奥地に河口慧海の記念碑を」
大西信司「「プレート設置プロジェクト」経過報告」
同 「マルファの子供達に支援の手を」
稲葉香「慧海の足跡をドルポに追って」

充実したよい会であった。メインは、ネパールのムスタン地方の村マルパ(マルファ)にある旧アダム・ナリン邸の玄関に慧海を顕彰するプレートを設置すべく計画を進めている大西氏の報告であった。この屋敷は、慧海が1900年の7月にトルボからチベットに潜入する前に滞在して経典を読んでいた場所である。今のオーナーが奇特にも自分で入り口に「河口慧海の家」という看板を設置している。そこに改めて、日本語、英語、ネパール語の説明文と慧海の肖像の石のプレートを設置して、慧海の事績を顕彰しようというのがこのプロジェクトである。プレートはもう完成していて、来月現地でこけら落としが行われる。

ムスタン、トルボ、慧海の越境ルートといえば、私のひとつの原点である。よい刺激を受けた。慧海研究はまだまだ続く。


研究ノート | トラックバック(0)

アジャンターの壁画を模写した日本画家

2019年02月11日
2月10日(日)
小雪のちらつく寒い日、京都の龍谷ミュージアムに「仏教美術のいきものがたり」を見に行った。目当ては、特別陳列の野生司香雪(のうすこうせつ)の「釈尊絵伝」7幀である。野生司は大正6,7年に荒井寛方といっしょにアジャンター石窟で壁画を模写した。
今から100年も前の話であるから、その苦労は並大抵ではなかっただろう。だいいち、ボンベイから現場まで何日かかっただろうか。そんなことがしきりに思われるのも、この地方に多少土地勘ができたからである。

彼らが作成した模写は、惜しいことに、関東大震災で焼失したらしい。

野生司はのちにアナガーリカ・ダルマパーラの依頼で、サールナートのムーラガンダクティーヴィハーラの内壁に釈尊一代記の大壁画を描いた。今回展示されている絵伝は、沼田惠範の依頼で昭和32年から34年にかけて描かれたものであるが、ムーラガンダクティーの壁画と構図が似通っていて、壁画の下絵に基づいて作成されたものかと想像された。その辺りの説明はなかったが、とても気になっている。
ミュージアムに着いて真っ先にしたことは、併設の喫茶店で熱いココアを飲むことだった。これでコンディションを整えてから入館した。帰りは、例によって京都駅の構内で蕎麦を食べて帰途についた。
また課題が増えたが、これは楽しい方の課題である。
研究ノート | トラックバック(0)

チベット語仏典熟覧

2018年12月11日

12月11日(火)

今朝は8時まで床を離れることができなかった。ひとつには寒さ、もうひとつには疲れからである。

昨日、堺市博物館で「堺 経典をめぐる文化史」に出陳されたチベット語仏典を熟覧させてもらった。昨日は会期中最後の休館日で、資料熟覧のラストチャンスでもあった。


写本チベット大蔵経カンギュル(東洋文庫所蔵)1帙とナルタン版チベット大蔵経テンギュル(個人蔵)1帙を特によく見させてもらった。

朝10時前に入って、終わったのが午後3時。1度コーヒーブレイクを入れてもらっただけで、昼食も取らずに、5時間ほとんどぶっ続けで作業した。その間、中腰になることが多くて、腰痛がぶりかえしそうになったが、貴重資料に触れることができて、気分は上々だった。


研究ノート | トラックバック(0)
« Prev | HOME | Next »