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免許更新

2017年06月23日

6月22日(木)

運転免許証の更新のため光明池の試験場に行った。5年に一度のお務めである。

講習の中で自己診断をしたら、「自己中心的運転」と「ながら運転」で事故傾向、違反傾向ありとの診断結果が出た。こういうのを甘く付けてもまったく意味がないから、厳しめに評価した。自戒、あくまでも自戒である。


運転免許を取得してから数十年。幸い自分から事故を起こしたことは一度もない。これからも安全運転を続けよう。

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*6月23日(霊宝館横)


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今日でまたひとつ

2017年06月19日

6月18日(日)

いつもの通りの日曜日。午後、大仙公園の堺市博物館に「企画展 富岡鉄斎―和泉国 茅渟海畔(ちぬのうみのほとり)の寓居にて―」を見にゆく。鉄斎は40代の一時期、堺の大鳥神社の宮司をしていたことがある。それにちなんだ展示で、規模は小さいが、明治10年の明治天皇の行幸に備えて調査・制作された「堺県行幸道筋官幣大社御陵位置図巻」や土屋鳳洲を始めとする堺の文人たちとの交流を示す「茅渟海晩景図」など、興味深い作品があった。


伸庵で抹茶を頂いて帰った。


6月19日(月)

朝からメールを出したり、コピーをしたり、会議をしたりしていたら、いつのまにか夕方が来た。梅雨に入っても晴天が続いている。高野山の紫陽花はまだ青い。今日でまたひとつ年を取った。


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地獄大夫

2017年06月18日

6月17日(土)

嵐電に蚕ノ社(かいこのやしろ)というかわいらしい名前の駅がある。蚕ノ社は近くの神社の名前であり、正式には木嶋坐天照御霊(このしまにますあまてるみたま)神社という。本殿東側に織物の祖神を祀る蚕養(こかい)神社があり、蚕ノ社の名はこれにちなんでいる。

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そこに三柱鳥居を見に行った。これは文字通り、三本柱の珍しい鳥居で、三方から拝めるようになっている。これをネストリウス派キリスト教と関係づける説が前からあって、この神社の説明板にも「一説」として紹介されている。私の前に、カップルが来ていて、写真を撮っていた。ひょっとすると、心霊スポットのひとつとされているのかもしれない。


帰途、京都駅まで行き、伊勢丹7階のミュージアム「えき」で河鍋暁斎展を見た。3月に東京に行った折、渋谷のBUNKAMURAまで行く気力がわかなかったのを、この機に取り返したのである。全部よかったと言っていいが、なかでもポスターにも使われている「地獄大夫」はすばらしかった。図録に加えて、絵はがき、一筆箋など「地獄大夫」グッズを買って帰った。帰りの電車の中で図録の解説を見たら、地獄大夫は泉州堺は高須の遊女ということになっている。何だ、ご近所じゃないか。

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大元公園

2017年06月16日

1時間ほどで大願寺を辞し、小雨の中、向かったのは宮島歴史民俗資料館である。ここの学芸員のTさんには予め連絡していろいろ教えてもらっていたが、Tさんはこの日は不在。代わりに館長さんが出てこられたのには恐縮した。

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*豪商の町屋を利用した作りで、展示物に見るべきものが多い。そのうちまたゆっくり来たいものだ。


最後の目的地は、大元(おおもと)公園内の国民宿舎みやじま杜の宿である。その敷地が宮島ホテル(1912年創立)のあった場所であり、宮島ホテルの前は、宮島みかどホテル(1906年創立)、その前は料亭旅館白雲洞があった。みかどホテルは、神戸にあったミカドホテルの分店のようなものであった。ちなみに神戸のミカドホテルは元は後藤旅館と言った。明治36年5月に第1回チベット旅行から戻った河口慧海が神戸上陸の日に宿泊したのはここである。


宮島ホテル(みかどホテル)は外国人観光客を当て込んで西洋式の設備を持っていた。ゴルドンが避暑に来て泊まっていたのもこのホテルである。

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国民宿舎は大元浦に面している。大元浦は1555年の厳島の戦いの際に陶晴賢(すえはるかた)軍の上陸地点となった。厳島の戦いは、毛利元就軍4000が陶軍2万を破った戦いとされているが、行きしなに読んだ秋山伸隆「厳島合戦再考」(『宮島学』)によると、陶軍2万は盛りすぎ、毛利軍4000は逆に少なく言い過ぎであるとのこと。毛利元就の知略を際立たせるための作為か。いずれにしても、両軍合わせれば2万人にはなったであろう軍勢がこの平地の少ない険しい地形の島の中でよく戦ったものである。


今回の旅はここまで。表参道に戻り、「広島焼牡蛎スペシャル」とビールでお腹を満たして帰途に就いた。実は大聖院など訪れるべき所はまだ残っている。来月、能海寛研究会の帰りにでも寄ろうかと今考えている。


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紅葉の谷

2017年06月16日

帰りは紅葉谷(もみじだに)の登山道を下った。他の二つ、大聖院コースと大元公園コースは、いずれも2時間はかかるという。1時から大願寺を訪ねる約束をしていたので、1時間ほどで紅葉谷公園まで下れるというこのコースを選んだのである。それにこの谷は景観がことに美しいらしい。

ところがこのコース、石段は整備されているものの、段差は大きく、したがって傾斜も急で、膝や足首の負担はかなりのものであった。

途中、まちがって左足を捻り、しばらく石段に坐りこんだ。もしもここで骨折したら、担架で運んでもらわなければならない。一瞬ぞっとしたが、痛みは次第に薄らいでゆく。骨折ではなく、軽い捻挫だ。それからは、ゆっくりゆっくり進んだ。

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渓流は自然のままではなく、堰堤がいくつも設けられている。紅葉谷公園の看板で知ったことだが、昭和20年9月、枕崎台風によって、この谷に土石流が発生し、厳島神社の境内まで埋めたそうである。こうして管理しなければ人里が危ないのである。

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*紅葉谷公園の入口近くにある老舗旅館、岩惣本店。1893年8月にこの島を訪れたオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公も岩惣に宿泊した(天野みゆき「外国人が見た明治・大正期の宮島」、県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)。1914年6月28日、サラエボで暗殺され、それが第1次世界大戦のきっかけとなった人物である。


ようやく町に戻った時には、ジャケットが汗でずっくり濡れていた。昼食を取る時間はないので、売店の隅のカフェでコーヒーを飲みながら時間を調整し、1時に大願寺を訪ねた。

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弁財天のお寺として知られる大願寺は高野山真言宗に属し、住職の平山師は高野山大学の卒業生だ。ご祈祷で忙しい中、私のためにわざわざ時間を取って下さった。

ここを訪ねたのは、かつてこの寺の住職であった松峯光典師に関する話を伺うためである。松峯師は安政5年紀伊国湯崎の出身で、明治29年に大願寺の住職となり、この寺の荒廃を挽回した傑僧である。ゴルドンもまた松峯師の教えを受けている。このことについてははっきりしなかったが、松峯師に関する興味深い話を数々聞くことができた。宗派ネットワークは有り難いものだ。




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