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鷗外の宿

2018年10月22日

10月22日(月)

今日から2日間にわたって重要な視察がある。

*****

金曜日から日曜日まで東京に出張した。金曜日は夕方から神田のB社で相談・打合せ。土曜日は、東洋大学アジア文化研究所主催の「能海寛生誕150年記念シンポジウム 新仏教徒 能海寛―哲学館からチベットへー」にパネリストとして参加した。よい会だったと思う。7月の波佐での記念式典・シンポジウムと合わせて、能海寛の顕彰・研究事業の大きな節目になった。


私個人としては、三浦節夫先生に久しぶりでお目にかかれたこと、地平線会議の江本嘉伸さんと7月の波佐に続いていろいろ話ができたことが収穫であった。


ホテルは2泊とも上野の水月ホテル鷗外荘であった。自分で決めたのではなく、東洋大学が予約してくれたのだが、これがなかなかに宜しかった。このホテルは森鷗外が1年あまり住んだ旧宅を中庭に保存しており、おまけに天然温泉がついている。鷗外が「舞姫」を執筆したのはこの家だ、ということで、ホテルもこれを前面に押し出している。鷗外縁の宿ということで何となく壮麗なイメージを抱いて行ったので、チェックインの時に意外に庶民的なことにちょっと戸惑ったが、2泊した後味はよかった。朝食はホテル内の鷗外の詩に因んで「沙羅の木」と名づけられた和食の店であった。大きな窓から中庭の竹林がよく見える。日曜の朝、竹が風にそよぎ、葉が陽光につやつや光って、何とも清々しかった。

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*鷗外旧宅内。


舞姫のモデルについては諸説あったと思う。それが現在どうなっているか、私は知らないし、積極的に知ろうとも思わないが、想い出すのは、関川夏夫原作・谷口ジロー作画の「明治流星雨」の中の一篇『秋の舞姫』である。これは鷗外を追ってドイツから日本にやってきたエリーゼ・ヴィーゲルトが大活躍する漫画であるが、結末は一転してとても寂しい終わり方をしていたと記憶する。これを読ませるのは、やはり谷口ジローの画力である。


日曜日の昼間、娘たちと根津のフレンチ・レストランで会食した。レストランはホテルから歩いて10分程度の距離だが、チェックアウト後、約束の12時にはまだ間があったので、谷根千文学散歩としゃれこみ、岡倉天心記念公園や鷗外記念館(観潮楼跡)などを見て回った。


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*清水坂。かつては弘法清水があったという。別名暗闇坂。


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*谷中五丁目の岡倉天心記念公園。ここにも六角堂がある。


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*中を覗くと、こんな面白い写真が撮れた。


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*ここは団子坂。東京は坂の町だね。


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*鷗外記念館内の喫茶店で一休み。アッサムティーをたのむ。


根津は河口慧海が住んだ町でもある。旧宅跡は根津一丁目交差点のすぐ近くだが、今回は行ってみる時間がなかった。





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タイの高校生

2018年10月17日

10月17日(水)

今タイの高校生たちが研修に来ている。メニューは盛り沢山だ。昨日は9時から12時まで加行道場の一室で私が「日本の祭り」と題して講義を行った。最初に近代の日タイ交流史の一面として、生田得能と善連法彦のタイ留学と仏舎利奉迎について話をした。お祭りの話だけでは間がもたないと思ったからだ。


この日は5時に起きてそのためのパワーポイント作りをした。3時間という無茶な割り当てである。通訳が入って半分になったとしても、話だけではこちらも保たないし、彼らも辛かろう。ところが、8時半頃のことである。誤操作から、それまでに作ったパワーポイントが全部飛んでしまった。たくさんのものを同時に立ち上げていたのが間違いの元である。一瞬頭が真っ白になりかけたが、そこは私もそれなりにベテランである。まあいいや、と自分を落ち着かせ、ちょいちょいと三枚ほどの写真でパワポを作りなおし、講義はそれで済ませた。相手は外国の高校生で、日本語は勉強しているらしいが、実際に来てみれば知らないことばかりであるはずだ。それに寒さに弱く、少々飽きてもいるようだ。しかも講義は通訳を介してである。最低必要なのは笑顔。あとは臨機応変の対応である。


途中2回休憩を入れ、多少早じまいはしたが、何とか結末までたどりついた。一度書いたことは覚えているものである。高校生たちの中には、日本人納骨堂のあるワットリアップの直ぐ近くのS校から来ている生徒が数人いた。S校は名門である。また引率兼通訳のS先生は、前に高野山に来ていたK先生の後輩だという。What a small world! 今度行く時には連絡しよう。

ただ終わった後の疲れは大きかった。おかげで、この忙しいのに3時頃まで仕事が手に着かなかった。 




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仏教系大学会議

2018年10月13日

10月13日(土)

一昨日から1泊2日で、京都で開かれた仏教系大学会議に出席した。高野山大学が今年の担当校に当たっているためである。


一昨日は会場校である佛教大学で開会式と基調講演があった。私の役目は開会式で司会を務めることで、あとは存在しているだけでいい。基調講演の講師はM先生であった。先生とはK-Gursでご一緒して大変お世話になった。講演の冒頭に先生がそのことに触れられたので恐縮した。私が尊敬する人の一人である。


終わって京都ガーデンパレスに場所を移して、2階の葵の間で懇親会。ガーデンパレスの向かいがちょうど京都御苑の蛤御門である。蛤御門といえば禁門の変である。この門を挟んだ会津・桑名と長州との攻防は大河その他で何度も描かれている。御門には弾痕も残っているそうだが、今回は確認に行かなかった。

昨日は午前中、ガーデンパレスでパネルディスカッションが開かれた。

ディスカッションの後は閉会式。そのあと、後片付けをしてから地下鉄で京都駅に行く。乾学長とはそこで別れ、近鉄奈良線で精華町の国会図書館関西館に向かった。


今月27日から4日間の日程で北京で開かれる国際学会に出席する。最近まで予定になかったことだが、急遽決断したのはJKさんの招待であったからである。JKさんからはこの春も別口の招待を受けたが、日程が合わなかった。さすがに2回連続は断れない。その準備のために必要な資料があり、近場では国会図書館がそれをデータ化しているが、それを閲覧するためには直接出向かなければならない。前にも書いたとおり、ここはすごい施設で、館員の応対もとても丁寧だ。ただ遠い。土曜日に出直してもよかったのだが、京都から電車とバスを乗り継げば1時間ちょっとで行けることを知って帰りに寄ることにしたのである。


2時間あまりで目的のものを手に入れ、バスで学研登美ヶ丘駅に向かう。生駒で近鉄線に乗り換え、大阪難波に出る。帰宅したのは7時頃だった。



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ボンベイの大石誠之助

2018年10月09日

10月9日

一昨日の夜、眠れないまま、書棚から『現代詩の解釈と鑑賞事典』という本を取り出し、あてずっぽうに頁を開いたら、与謝野鉄幹の「誠之助の死」が出てきた。「大石誠之助は死にました、いい気味な、機械に挟まれて死にました」で始まる反語で綴られた抗議の詩である。翌日、夜明け前に眼が醒めて何気なくラジオを点けると、深夜番組がまだ続いていて、何と、大石の話をしている。こういうのをシンクロニシティと言う。大石は大逆事件で刑死した新宮の医師で、文化学院を創設した西村伊作はその甥に当たる。


ラジオの話は大石のボンベイ(ムンバイ)留学に及び、彼が社会主義に目覚めたのはそこでカースト制の実態を目の当たりにしたからという説明があった。が、これには少々引っかかった。10年以上前に読んだ森長英三郎の『禄亭 大石誠之助』では、折柄のボーア戦争に帝国主義の正体を見た思いがあって、社会主義関係の本を読み始めたと説明されていたはずである。ボンベイはインドの西の玄関口でアフリカにもさほど遠くない。MKガンディーの事蹟を引くまでもなく、南アフリカにはインドからの移民も多かった。ボンベイにいてアフリカの戦争を肌で感じるのはありうることである。しかし、あとでネットを見ると、ラジオと同じ説明が多い。この辺りをどう考えるべきかは、専門家に教えてもらいたい。


私が大石に興味を持つのは、やはり彼が1900年にボンベイに渡ってボンベイ大学で伝染病の研究をしたという特異な経歴のためである。この夏、ムンバイに行くに当たって、ムンバイ大学が見たいとリクエストしたのも実は大石が念頭にあってのことである。ただ時間の都合で大学は外から見ただけに終わった。

大石のインド滞在は病気のために一年と続かなかったが、その頃のボンベイには間島與喜がいたし、大宮孝潤もしばしばカルカッタから保養に来ていたはずだ。彼らと大石の接点はなかったのだろうか、いや、ない方がむしろ不自然だ、と、ここまで考えて、ふと予感がして、以前I曽根さんから提供してもらった間島関係の写真資料を見直して見る気になった。

すると……あれ、これひょっとして、というのが出てきたのである。ボンベイ在住の日本人たちの集合写真に写っているひとりの男。裏書きには「明治三十三年五月十日□□□奉祝」云々とある。年代は合っている。この奉祝は日付から見てのちの大正天皇のご成婚祝いである。大石にはよく知られた写真が2枚ほどある。それらとモニター上で見比べてみる。似ているといえば似ているような。しかし、別人といえば別人かもしれない。


このトピックは今のところここまでである。新宮の佐藤春夫記念館では今企画展「大石誠之助とはどんな人」が開かれている。今年1月に大石は新宮市の名誉市民に選ばれた。その記念の展示らしい。同じ県内でも新宮は遠いが、誰か詳しい人がいるかもしれないので、機を見て行ってみることにする。


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太陽の塔

2018年10月08日

10月8日(月)

昨日の午後、難波サテライトでオープンキャンパスがあった。難波サテライトでは、現行の心理ケアに加えて、来年度から密教学科の3回生編入が始まる。つまり、3回編入生に限ってではあるが、密教学科の授業を難波で受けることができるようになる。私も2科目持つことに。今以上に忙しくなるのはちと辛いが、反面、どんな顔に会えるかが楽しみである。

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一昨日の午後、梅田のスカイビルにあるシネ・リーブル梅田に「太陽の塔」を観にいった。大阪万博会場に岡本太郎が造った太陽の塔とはいったい何だったのかを多くのインタビューを綴り合せる形で追究したドキュメンタリー映画である。

今年の3月のこと、この映画の制作会社から連絡があり、東京青山の「岡本太郎記念館」でインタビューを受けた。つないでくれたのは、大谷大学のM先生である。というわけで、私はこの映画にほんのちょっとだけ顔を出している。試写会の案内も受けたが、授業があって東京までは行けなかったので劇場で観たというわけである。

これはなかなかの力作であり、問題作である。

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